蝋(ろう)づけ用の石油ランプをうっかり倒して石油を浴び、そこに引火して、あっという間に火に包まれたのだ。右腕から腋(わき)へかけてひどい火傷を負い、動くこともできない状態になった。
坂田の店は徳次たち3人の肩にかかった。洋傘の金具づくりの仕事は3人で何とか続けられるが、営業や取引の交渉になると、少年3人ではどうにもならなかった。芳松を医者に診せるために出費は嵩(かさ)むのに、店の収入は目に見えて減っていった。立て続けに起こる困難に堪(たま)りかねた兄弟子2人は実家に逃げ帰ってしまった。徳次は彼らの実家に急いで出かけ、何とか説得して連れ戻して来た。そしてそのことは、病床の芳松には伝えなかった。
2人を連れ戻した直後、徳次は思いついたことがあった。「あれを売ろう」。隅に置いた石油缶を指さしながら2人に言った。差し押さえられたドイツ製の機械で作った“売り物にならない鉛筆”が2杯の石油缶にぎっしり詰まっていた。
「出来は悪いけど鉛筆は鉛筆だ。立派に使えるんだから、夜店で安くしたらきっと売れる」。もちろん、徳次も初めての商売には不安もあったが、何とかなるとも思っていた。
芳松に、鉛筆を売って金に替えましょうと提案したその日の午後、徳次は出来損ないの鉛筆を風呂敷いっぱいに包んで背負うと店を出た。向かった先は日本橋・水天宮。その日は縁日だった。
水天宮は浜町、蠣殻町と抜けて6キロはある道のりだ。隅のほうに場所を見つけて潜り込むと早速、地面に風呂敷を広げてその上に鉛筆の山を作った。
「鉛筆3本、たったの1銭!」と呼び声を出さなくてはいけない。だが初めてのことで、かあっと上がってしまい恥ずかしくてたまらない。