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中国のタイタニック。太平輪沈没の謎(3)

 今から66年前の1949年1月27日、東シナ海に面した杭州湾で2隻の商船が衝突し、双方の乗客と乗員の大半が死亡するという、大変に痛ましい事故があった。衝突されたのは建元輪という名の貨物船で、衝突した客船の太平輪が乗員の一部を救助したものの、まもなくその太平輪も沈んでしまったのである。太平輪は排水量2489トンの中型船だが、当時は2093トンもの貨物に加え、定員(約500名)を超える800名以上もの乗客を満載し、乗員も合わせて1000人以上もの人々が乗り込んでいたものの生存者は50人以下とされ、衝突された建元輪の乗員に至っては全員が死亡している。

 多くの犠牲者を出した太平輪の悲劇は「中国のタイタニック」と呼ばれ、中国史上最悪の海難事故として、広く語り継がれていった(中国には犠牲者で太平輪を上回る海難も発生しているが、社会的影響などからそのように形容されている)。また、太平輪の遭難については、さまざまな謎が存在していると言われ、事故に至る経緯については不可解な点も少なくないのだ

 まず、太平輪も建元輪も船長を始めとする幹部船員が全員死亡しており、事故当時の状況がよくわかっていない。その上、事故当時の中国は国民党と共産党との間で激しい内戦が繰り広げられており、後に太平輪の運行会社も共産党軍に占領されたため、記録が散逸してしまったこともまた、真相究明を困難にしている。しかし、夜間航行にもかかわらず太平輪が航海灯を消していたとされることと、船員の多くが飲酒していたと証言する生存者の存在は、事故の直接的な要因として論議の対象になっているのは間違いない。

 特に太平輪が航海灯を消していたことは、ネットなどで大きく取り上げられているが、点灯していなかったことを証明する決定的な情報はなく、また消灯の理由とされる「夜間航行禁止令」についても、根拠となる当局の指示や法令は示されていない。さらに、そのような指示や法令が存在していたとして、太平輪が衝突した建元輪も同様に違反していたのかという疑問もある。また、建元輪が航海灯を点けていたのか、消していたのかも定かではない。

 ただ、太平輪は正午ごろに上海を出港して日没までに外洋へ出ている予定であったが、重要物資の積み込みに手間取って出発が夕方へずれ込んだという経緯がある。そのため、少なくとも夜間航行を避けようとしていたのは確かなようだが、現場海域は島が多いので日中に通過しておきたいのは自然であろう。それに、状況が緊迫していた上に、中国の暦では大晦日であったとはいえ、夜間航行を避けなければならないのであれば、出港をさらに半日ほど先に伸ばせなかったのかという疑問も残る。

 夜間航行の危険を犯してまで太平輪が出港を急いだ理由とは、なんだったのか?

(続く)

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