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中国のタイタニック。太平輪沈没の謎(1)

 今からちょうど66年前の1949年1月27日、東シナ海に面した杭州湾を、灯火を消した1隻の商船が航行していた。船の名は太平輪。排水量2489トンの中型船だが、当時は2093トンもの貨物に加え、定員(約500名)を超える800名以上もの乗客を満載し、かなりの過積載状態で航行していた。

 太平輪は戦争中の軍隊輸送船で、上海屈指の海運企業連合である中華民國中聯企業公司が、前年に台湾の基隆と上海を結ぶ航路へ就航させたばかり貨客船だった。当時、中華民国政府は太平洋戦争に敗北した日本から中国の支配権を取り戻し、中心都市である上海と台湾などの島々を結ぶ航路の整備が進められていたのである。しかし、同時に中国では国民党軍と共産党軍との間で激しい内戦も繰り広げられており、太平輪の就航と前後して国民党が大敗したことから、上海には共産党の支配から逃れた難民が押し寄せていた。

 そのため、太平輪は就航直後から台湾へ逃れる避難民や物資を満載し、ほぼ毎週のように上海との間を往復していた。そして、就航から半年も経たない1948年12月には、上海の北にある徐州で国民党軍が壊滅し、上海の国民党支持者や政府関係者の大量脱出が始まったのである。中でも、運命の27日に出港した便には、上海中央銀行の帳簿を始めとする重要書類1300箱に銀貨、上海の有力新聞である東南日報の印刷設備や新聞用紙など、積載能力をはるかに超える物資が積み込まれていた。

 乗船を希望する避難民も殺到しており、著名人や政府関係者、富裕層にその家族など、上海の政財界がそのまま乗り込んだような有り様だった。もちろん、乗船券は庶民が決して買えないほどほど高騰したうえ、出港予定日が迫ると金銭では購入できず、入手するには金塊と引き換えにしなければならなかったという。

 それでもなお定員を超える500名以上(当時の新聞によると563名)が乗船券を買い求めたばかりか、それに加えて乗船者や船員のコネを使って乗り込んだ人々も多数存在していた。そのため、船員を含めた最終的な乗船者は1000名以上、推計によっては1500名以上もの人々が、現代の日本では離島航路の中型フェリー程度の大きさしかない船に、貨物ともどもぎっしり乗り込んでいたとされる。

 中国の暦で大晦日となる27日の夕暮れ時、恐らくは基隆行きの最終便となるであろう航海に向けて、太平輪は慌ただしく出港したのであった。
(続く)

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