これだけ豪華なメンバーがノミネートされていると観る側も必死になり、音楽祭の予選を観に行くことも頻繁に増えていった。特に印象的だったのが、新宿音楽祭の予選が新宿三井ビルの広場で行われた時。この豪華な面々が通行人から見えるような場所で、堂々と歌っている。今では信じられない光景だが、そこで圧巻の歌声を聞かせてくれたのが中森明菜である。その歌声に惚れたところもあり、中森のレコードは常に買っていたのだが、82年12月24日に発売されたミニアルバム『Seventeen』は、歌声と別の理由で購入してしまった。というのもこのレコードは限定のピクチャーレコードだったからだ。普通のレコードは黒だが、ピクチャーレコードはレコードに写真が印刷されていて、ファンにとってはたまらないアイテムだった。当時はピクチャーレコードが流行っていたので、アイドルに関わらず、多くのピクチャーレコードが出回っていた。
自分にとって中森明菜という存在は、あくまでも歌声であり、アイドルとして好きという感覚では無かった。これまで生で何度も中森の歌を聞いているが、いつも1曲や2曲しか聞けないので、物足りなさはかなりあった。ようやくそのもどかしさから開放されたのが、83年2月27日にファーストコンサートが開催された新宿厚生年金会館である。私は中学3年生で高校受験だったが、受験も終わっている時期に開催ということで、この日を本当に楽しみにしていた。まだシングルを数枚しか発売していなかった時期で、一般的に知られている曲は少なかったが、大きなホールで響き渡る中森の声は格別だった。
このコンサートを観たことがキッカケで、さらに中森の歌に酔いしれるようになるのだが、やはり至近距離で観たいという願望も強くなった、中森に会える場所を探すようになり、まず平日夕方に生放送している『アップルシティー500』(TBS系)の観覧を皮切りに、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)など公開番組をチェックするようになった。もちろん出待ちにも挑戦した。ある日曜日に『スーパージョッキー』(日本テレビ系)にゲスト出演して、その後に『決定!全日本歌謡選抜』(文化放送)に出演することがわかり、その流れで中森を追いかけてみた。
両番組とも生放送なので、会える確率はかなり高かったので、自転車で日本テレビのある市ヶ谷から文化放送の四谷に向かった。まず日本テレビの駐車場で、車が出るのを見届けて、先回りをして文化放送で待ってみた。すぐに車は到着して、とりあえず会釈はできた。文化放送では、ラジオの生放送ということもあり、出待ちの間ずっとラジオで中森の出番をチェックして、出てくる時間も計算できたのは嬉しかった。出番終了後すぐに出てきた中森にさっと近づいて写真を撮らせてもらった。イメージと違って気さくな優しいお姉さんだったのが印象的だった。車に乗り込んでそのまま次の現場に移動してしまったが、私は先回りをして信号の前まで自転車で移動した。その時に窓をノックしてサインを求めると、信号待ちの間にササッとサインを書いてくれた。
優しさに触れて中森に対して好感が高まっていたが、すでに人気者になってしまい、会える機会がほとんど無くなってしまい、実際に会いに行くには敷居が高くなり、完全にテレビで見るアイドルになってしまった。80年代も終わりに近づくと映画『愛旅立ち』で知り合った近藤真彦との熱愛があり、さらにその破局謝罪記者会見まで行い、ダークなイメージが強くなってしまった。良くも悪くもアイドルを脱皮してひとりの女性になった感じだが、中森にとってのターニングポイントは、ドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)の主演と言えるだろう。以降は女優・中森明菜として再出発をした感じになったが『ボーダー犯罪心理捜査ファイル』を途中降板してしまい、そのまま休養に入ってしまった。
それから復帰と休養を繰り返していたが、一昨年の『紅白歌合戦』に出場したことで、この先にまた歌声を聞ける可能性もあることを暗示してくれた。来年はデビュー35周年になるので、もし色々な事情が許すのなら、記念コンサートを開いてもらいたいものだ。中森明菜の歌声は今でも健在という姿を見せて欲しい。
(ブレーメン大島=毎週土曜日に掲載)
【ブレーメン大島】小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしての顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。