例えば「楠木正成のような人間は、歴史の研究で取り上げるに値しない」といった発言がある。
これを字面だけで捉えると誤解してしまうが、明治維新前後の日本における「漢学」から「洋学」への転換期において、福沢諭吉はこう考えた。
「今までの寺子屋方式ではダメなんだ。そこから脱皮して、ユニバーシティ(西洋型の総合大学)を作らねばならない」
それまで「義侠心」や「侍の象徴」とされてきた楠木正成を切り捨てる事は、苦渋の決断だっただろう。「歴史を人文科学として捉えるのに、『義侠心』というテーマは関係ない」と考えたのだ。
同じように「忠臣蔵の赤穂浪士の仇討ち」に関しても「取り上げる必要はない」と諭吉は判断した。
「『忠』も『義』も人文科学で研究する事ではない」と。
明治維新後の日本の急激な西洋化の影には、このような教育者達の苦渋の決断が沢山あったのである。
(みんみん須藤)