バンディさんが日本のお茶の間に初登場したのは、当時テレビ東京で放映されていたプロレス番組で、1982年に“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックの引退試合の相手を務めた時である。エリック一家のテリトリーだったダラス地区で活躍。1983年には同地区でジャイアント馬場が保持していたPWFヘビー級王座にも挑戦しており、全日本プロレスへの来日が有力視されていた。しかしその後、テリトリーを移動し、マスクド・スーパースターとのタッグで、あのロード・ウォリアーズからNWAナショナルタッグを奪取。テネシーのAWAエリアに移ると、数々のタイトルを獲得するなど、後にクラッシャー・バンバン・ビガロを輩出したラリー・シャープが主宰していたモンスター・ファクトリー出身とあって、若くて大きく動けるバンディさんが売れっ子になるのは、当然の流れだったように思う。
日本マットには1985年1月シリーズに待望の初来日。バンディさんが選んだ日本のリングは新日本プロレスだった。ロード・ウォリアーズのようにプロレス番組や専門誌での前評判が高かったため、初来日ながら同シリーズの外国人エース格に抜擢され、シリーズ終盤の愛知、大阪の2連戦では、アントニオ猪木と1万5000ドルを賭けたボディスラムマッチを行い話題となった。“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントをボディスラムで投げている猪木だが、170kgのバンディさんのひょうたんのような体型は投げ難かったようで、愛知では投げられない上にリングアウト負け、大阪は延髄斬りでフォール勝ちを収めたが、ボディスラムでバンディさんが投げて、猪木が試合に勝ってルールに負けたと言われている。
その後もアンドレとのシングル、“超獣”ブルーザー・ブロディとのキングコングタッグ結成、藤波辰巳(辰爾)とも抗争を繰り広げた。新日本との提携ラインで、WWF(WWE)とも契約し、アメリカではハルク・ホーガンのライバルとして対峙。第1回『レッスルマニア』でデビューするという破格な扱いを受けている。WWEでは、ボビー・ヒーナンをマネージャーにホーガンとの抗争に突入すると、ドル箱カードに。ホーガンと結託していたアンドレとも対戦している。しかし、体調を崩したため1988年に一旦引退。1994年から再びWWEに復帰。ジ・アンダーテイカーとも対戦したが、1996年に契約を解除され、1997年にはIWAジャパンに12年振りとなる来日を果たし、日本のファンを喜ばせた。
世界的に怪物レスラーが減少する昨今のプロレス界において、バンディさんの訃報は非常に残念。21世紀のモンスターレスラーの登場を期待したい。
合掌
※文中一部敬称略
文 / どら増田
写真 / 舩橋諄