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猪木氏が登場!『炎のファイター』に始まり『王者の魂』で終わった馬場さん追善興行

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アントニオ猪木

『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』
▽19日 東京・両国国技館 観衆8.800人(超満員札止め)

 ジャイアント馬場さんの追善興行にアントニオ猪木氏が来場すると聞いたとき、耳を疑ったのは私だけではないはずだ。

 1972年から反目し合っていた2人が公の場で会ったのは、東京スポーツのプロレス大賞授賞式や、1978年のプロレス夢のオールスター戦、外国人引き抜き戦争の際に紳士協定を締結したとき。そして2人の師匠である故・力道山関係のイベントの数回のみだった。

 ただ、実は2人が頻繁に会っていたというのは事実のようで、レストランなどにその“足あと”が残されていることが確認されている。しかし、猪木氏の引退試合に馬場さんが電報を送ったにもかかわらず、それが意図的に読まれなかったとされた。公の場での接近感は避けていたように見える。同日にデビューした2人であるだけに、実際に会えば「馬場さん」「寛至(猪木氏の本名)」と呼び合う兄弟のような仲だったと話す関係者もいる。

 この日、オープニング映像が終わると『炎のファイター』が場内に鳴り響く。地鳴りのような大猪木コールの中、猪木氏はリングに上がらず、リングの下から挨拶を始めた。

 「元気ですかー!元気があればなんでもできる。元気があれば、送り人もできるということで、馬場さんの20周年…20年ですかね。早いもので、あの、だいたい20年経つと忘れられてしまうんですが、きょうはこのように会場にたくさんの方が駆けつけてくれてありがとうございます。ジャイアント馬場に成り代わってお礼を申し上げます(場内爆笑)」といつもの調子で語り始めた。

 「最後に入院される前によくあるホテルのロビーで顔を合わせたんですが、すれ違って立ち話した時『お前はいいよなぁ』と。何がいいのか分かりませんけどね、私がいつも挑戦し続けたんで馬場さんも困ったろうなと思うんですよね」と馬場さんとのエピソードを語る。

 「最後に来た手紙が『三途の川で待ってるぞ』と。挑戦を受けるべきかどうか、逆に私が悩みましたけどね。でもだんだん歳をとるのは仕方がないなと。私もそろそろ、送られ人になりそうかなと。その時は、せめて10年ぐらいたっても覚えていてほしいと思いますけどね」とポツリ。

 「何はともあれ若い選手が控室に挨拶に来てくれましたが、知らない選手たちも(場内爆笑)」と嘆いたが、「でもやはり格闘技、プロレスというのは永遠だと思うんで、形は変われどこれから50年、100年、何百年先にも続いていくと思いますから、ひとつ伝統芸、スピリットというか…」と、プロレス界のさらなる発展に期待した。

 最後の合図ももちろん忘れていない。「久しぶりに上着を取ってやります(場内大拍手)。ほんとはね、リング上に上がろうと思ったんですが、上がったら挑戦状を受けたということになりそうなんで、下からご挨拶させてもらってますけどね。ますます元気にプロレスは、師匠・力道山から始まり戦後の復興に元気をつけてくれた。そんな思いを込めて、若い選手にメッセージとして送り、ファンの人たちもよろしくお願いします。行くぞー!1、2、3、ダァー!」

 プロレスファンの前では久々に「ダァー」を披露すると再び『炎のファイター』が流れ、大猪木コールの中、猪木は控室に戻っていった。猪木氏は待ち構えていた報道陣の質問に少しだけ答えると、そのまま試合は見ずに国技館を後にしたという。

 猪木がリングに上がらなかったのは「腰の手術が影響しているのか」と心配する声もあった。ただ、関係者の話によると、会場入りから猪木氏の足取りはしっかりしており、異変は感じられなかったそうだ。この日のリングが全日本プロレス仕様だったこと、そして馬場さんの興行だったことから、「このリングに上がるべきではない」と猪木氏が配慮したものと思われる。

 エンディングでは、馬場さんに向けた10カウントの後に、馬場さんのテーマ曲『王者の魂』が流された。猪木氏のテーマ曲『炎のファイター』に始まり、『王者の風』で終わった平成最後のプロレスオールスター戦。これで昭和も完全に終わったのかもしれない。そう思うととても感慨深い興行だった。

取材・文 / どや増田
写真 / 舩橋諄

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