ただ、この狂歌を描いた浮世絵として江戸末期(1849年)に出版された歌川芳虎の「道外武者御代の若餅」は伝わっているのだが、肝心の歌そのものは伝わっていない。それどころか、浮世絵に添えられた発句は「君が代とつきかためたる春のもち 大将の武者四人にて餅搗之図」で、落首とは異なっている。
とは言え、当時は幕府を批判することそのものが重罪であり、天下餅のような狂歌を公然と刷って流通させられるような状況ではなかった。この浮世絵にしても、武者の家紋などから家康が労せずおいしいところをもっていったとの寓意が隠されているとされ、発売からわずか半日で発禁となり、版元ともども歌川芳虎も処罰されたと伝わっている。そのため、添えられた発句は幕府批判ではないとの体裁を整えるためのもので、狂歌こそが真意であるとの見方には説得力がある。
幸いにも浮世絵は現存しており、発句ともども確認できるが、確かに「天下餅」の狂歌そのものに繋がる情報はない。ただ、描かれた内容は「天下餅」そのものであるだけに、関連が全く無いとも思えない。
ならば、狂歌の内容や浮世絵がそれをもとにして描かれたという話は、いつ、どこで生まれたのだろうか?
それには、明治時代に活躍したジャーナリストであり、言論人が深く関わっていたのである。
(続く)