神奈川県川崎市の稲毛神社境内に、正岡子規没後百年記念句碑があります。子規が野球殿堂入りした年でもある2002年に建てられました。子規の川崎を詠んだ句から「川崎や 畠は梨の 帰り花」「多摩川を 汽車で通るや 梨の花」などが紹介されています。
東京都台東区の上野公園にある野球場には、「春風や まりを投げたき草の原」の句碑があります。松山には至る場所に子規の句碑があるにもかかわらず台東区にないのはおかしいと、2000年ころから、台東区俳句人連盟らが上野公園を管理する東京都へ陳情を始めました。都の恩賜公園に句碑が建つのは異例ですが、区の協力もあり、2006年に除幕式を迎えました。
句碑が建つ野球場は、「正岡子規記念球場」の愛称で親しまれています。
台東区根岸には、子規が、母・八重、妹・律とともに約8年を過ごした子規庵があります。老朽化や関東大震災のため改築はされていますが、間取りは子規が晩年を過ごしたまま残されています。
子規庵にあがると、夏目漱石や高浜虚子などと句会や歌会を開いた8畳の部屋があります。その隣には、病苦に立ち向かいながら子規が文芸革新の道を追い求めた6畳の部屋があります。
歌人であり小説家の長塚節(たかし)の生涯を描いた「白き瓶(かめ)」(藤沢周平)という小説があります。「白き瓶」の第1章の題が「根岸庵」となっています。「根岸庵」の章に、子規の弟子であった長塚節が子規庵を初めて訪れた場面が描かれています。長塚節は、玄関に出てきた八重に名刺を渡し、子規が寝ている6畳の間に通されました。
「白き瓶」には、子規の葬儀の様子も描かれています。同じく子規の弟子であった伊藤左千夫が長塚節に話しかけます。
「短歌会といっても先生あってのものだからな。ほうっておけば、このまま霧散霧消しかねないよ、君。それをどうまとめて発展させて行くか、難問だ。しかしわれわれは、先生の屍を越えて新しい歌を打ちたてなきゃならんのだ、うん」
6畳の部屋から、当時は珍しかったガラス戸をとおして、子規庵の庭を眺めることができました。空襲や新しく飛んでくる種子などの影響で、子規が過ごしたころとは様子が違うとのことですが、子規が絶筆三句にも詠んだへちまは、現在も、育てられています。
子規庵保存会の方にうかがうと、『坂の上の雲』の影響もあり、多くの人が子規庵を訪れ、子規や子規が過ごした時代に触れているとのことでした。
また、根岸の街には、子規の句を紹介するプレートがはられています。根岸を訪れた人々が、足を止めていました。(竹内みちまろ)