山本は高校卒業後、亜細亜大学に進学、東都大学リーグで通算33勝を挙げる活躍をした。そして4年生のシーズンには70奪三振という記録も残した。1971年のドラフトで阪神に入団。
72年の1年目から1軍で活躍した。そこには山本が独自に開発したフォークボールが武器として大きかった。それはストレートもフォークも同じフォームで投げ、握りも同じで使い分けた。
5年目の76年からリリーフ投手として起用され、6勝3敗18セーブという好成績を挙げた。その翌77年は9勝5敗9セーブで前年を上回る勝ち星を挙げたが、9セーブでリーグ最多のセーブ投手になった。78年から再び先発投手に戻ったが、最高の成績は80年の15勝11敗2セーブだった。
81年から再びリリーフに戻り、82年には15勝8敗26セーブの成績を挙げ、セーブポイントは史上初の40であった。最多セーブは逃したが最優秀救援投手に輝いた。また84年には10勝8敗24セーブ、34セーブポイントを挙げ、2回目の最優秀救援投手となり、セ・リーグを代表する守護神であった。85年は阪神が21年ぶりにリーグ優勝した年、山本は9月の試合前練習中にアキレスけんを断裂して終盤は出場できなかったが、5勝6敗11セーブを挙げて優勝に貢献した。翌年11勝3敗15セーブを挙げて復活したが、87年は2勝1敗9セーブ、88年は0勝3敗0セーブしか挙げられず現役を引退した。
引退後は野球解説者になったが、92年から95年まで広島の投手コーチを務めた。現在はNHKで野球解説を行っている。