中居は、野球少年だった。小学生6年生まで、練習が生活の中心。神奈川・辻堂に引っ越したあとも、自転車で約40分かけて、練習に通っていた。その甲斐あってキャプテンになったが、肘を痛めて、大好きな巨人に入団する夢を断念。
中学生のとき、テレビで見た光GENJIに衝撃を受けて、ジャニーズ事務所に履歴書を送った。あのとき、怪我に見舞われていなければ、SMAPは誕生しなかったかもしれない。
ここまで中居が野球に没頭した理由は、もちろん、巨人の選手が最高にカッコいいヒーローだったということもある。しかし、それ以上に、貧乏だった幼年期、男兄弟3人を育ててくれた父親(正志)に恩返ししたいという思いが強くあった。
中居が生まれたとき、家族5人は4畳と3畳半のオンボロ住居で、文字通り肌を密着させながら生活していた。風呂はなく、毎週日曜日と、週の真ん中のどこか1日の計2回しか、銭湯に行けなかった。そのうちの1日に、3人兄弟の誰かがプールの日とバッティングしようものなら、消滅。蛇口にホースをつないで、玄関先で洗髪した。当然、冷水だった。
今では、日本を代表するタレントになった中居。地元の友だち、父親を、芸能界に入ってから出会った人よりも大切にしているのは、あの時代を共有したから。高級車を2台も父親にプレゼントできたのは、中居にとっての大願成就だ。
SMAPになってから、自分ではなく木村拓哉がグループの要でいたほうがいいと推奨したのは、少年期、「自分が4番ピッチャーじゃないほうが、チームは強くなる」とジャッジしたころに学んだ教訓。やはりSMAPは、中居なしで生まれなかった。