有吉弘行の2回を上回る3回、ブームを起こしたのは“元祖・替え歌”嘉門達夫だ。3度目となる現在は、子ども向けバラエティ番組『ピラメキーノ』(テレビ東京系列)で火がつき、大人気の『ピカルの定理』(フジテレビ系列)でも常連に。では、過去2回のブームは、どのように訪れたのか?
そもそも、嘉門は16歳のとき、笑福亭鶴光のもとへ弟子入りしたことで、芸能生活をスタートさせた。しかし、わずか5年で破門。放浪の旅に出た。冬はスキー場、夏は与論島で住みこみのアルバイト。その先々で、集まった客の前で、ギター片手でネタを披露しては、大爆笑をとっていた。
19歳で、大阪の大人気深夜ラジオ『MBSヤングタウン』のレギュラーに抜てき。当時からつねに、コミックソングのデモテープを何本も作っており、それを聴いた東京の大手芸能プロダクションの社長がスカウト。新人アーティストを宣伝するプロモーターとして、アルバイト雇用した。
当時、嘉門が担当した作品は「チャコの海岸物語」。のちに、アミューズを背負って立つこととなるサザンオールスターズだ。サザン担当の嘉門は、サザンがライブで来阪するときの打ち上げ要員となり、桑田佳祐らメンバーと親睦を深めた。この縁で桑田は、アーティストが洋楽を紹介するときの掛け声「カモ〜ン!」を「嘉門」という芸名にして、プレゼントした。
強い芸名を手にした嘉門は1983年、『ヤンキーの兄ちゃんのうた』でレコードデビュー。有線放送で火がつき、続く『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』、『アホがみるブタのケツ』で、夢であった音楽と笑いの融合を成功させた。
2度目のブレイクは、91年。♪誰も知らない素顔の八代亜紀♪などで話題になった『替え歌メドレー』。82万枚の大ヒットとなり、コミックソングとしては異例の紅白出場まで果たした。しかし、驚くべく、どれだけ売れても嘉門の印税はゼロ。CD化するにあたり、全曲の許可を取ったため、印税はオリジナルのほうに支払われていた。
現在、3度目のブレイクを満喫中。きっかけは、子ども番組の控え室で『アホがみるブタのケツ』を流していると、遊んでいた子どもが大爆笑して、すぐに覚えて、歌いはじめたことだった。
プライベートでは、08年に6歳年下の眼科医と結婚。50歳前の初婚。夫婦あわせて92歳というアダルト婚は、自由奔放な嘉門らしい生き方だ。そして、結婚を境に、人気を再び呼び寄せた強運もやはり、嘉門らしい。(伊藤由華)