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運命の指名「10月27日」へ(3) 球団売却を加速させた1977年の江川指名

 昨今、ドラフト会議への注目度が再び高まっている。「再び」と称したのは、一時期、「つまらない」と言ったプロ野球ファンの声がかなり寄せられていたからだ。「つまらなくなった理由」は1つ。1993年、大学生、社会人の1位、2位指名に限り、“逆指名”が認められ、「誰がどの球団に入るのか、事前に分かってしまう」からである。ドラフト制度が導入された目的は『戦力の均衡化』と『契約金の抑制』。当時、“逆指名制”について有力球団は「メジャーに選手を引き抜かれる。好きな球団に入団させることで人材流出を防げる」と提唱していたが…。
 「1977年のドラフトがおとなしく終わっていたら…」
 元スカウトは「私見」と前置きした上で、そう回顧していた。

 1977年11月22日、第13回ドラフト会議−−。同年の注目選手は4年前に阪急の1位指名を拒否した江川卓(法政大)である。巨人希望の思いは、大学生活を経ても変わらなかった。また当時は、指名する順番を決める『予備抽選』なるものが行われていた。長嶋茂雄監督は「くじ引きの練習をしてきた」と意気込んでいたが(どんな練習!?)、2番クジ。「1番クジ」を引き当てたのはクラウンライターだった。
 この瞬間、クラウンライターに「江川を本当に指名するのか?」の視線が集まった。さらに、当時は1位指名前に『昼食タイム』も設けられていた。クラウンライターの出席者はその間も11球団の視線を痛いほど感じていたという。
 クラウンライターの1人が席を立った。一歩遅れて、巨人職員もトイレに向かう。この光景を見て、何人かのパ・リーグ球団職員もトイレに急いだ。
 そう、クラウンライターが江川指名を諦め、その見返りを巨人に求めると思ったのだ。他のパ・リーグ職員は「江川を獲れ! そうすればお客も入る」と、無言でニラミを効かせていたのだろう。
 「その巨人職員と2人きりになるよう、指示したのは根本陸夫氏(故人)です」(前出・元スカウト)
 根本氏は72年シーズン途中に広島カープの監督を退き、テレビ解説者を務めていた。この77年オフにクラウンライターから監督就任のオファーを引き受けたのだが、「たとえ大金を積んでも、江川はクラウンライターには来ない」と読んでいた。

 「いや、正反対の証言も残っています。クラウンライター(本社)は土地開発事業も手掛けていました。江川の後見人は船田中代議士。本社筋から船田氏と話ができる別の代議士を紹介してもらおうとしていた」
 そう語る元パ・リーグ職員もいたが、“密談”を指示したということは、根本氏に何かしらの策略があったのだろう。もう真相は分からないが、後に『ドラフトの寝業師』と称される根本氏のことだ。江川指名を見送ることで、巨人相手に有利なトレードを持ちかける策略も温めていたのかもしれない。
 巨人と接触できないまま、指名開始の時間が来てしまう。
 前出のベテランスカウトが言うように、このときのクラウンライターの選択が違っていたら、ドラフトの歴史は変わっていた。当然、翌78年の江川問題は起こらなかった。だが、当時のクラウンライターは『球団売却の準備』にも着手していたとされ、江川でなくとも、1位指名された選手は入団を即答できなかったはずだ。クラウンライターは他のパ・リーグ職員からの“重圧”に負けたのか、それとも、「本当に欲しいと思う選手を指名する」というドラフトの原理を貫いたのか、1位指名・江川卓をアナウンスさせた。

 根本氏が敏腕を発揮するのは球団が「西武」として生まれ変わってからだが、最初の寝業は未遂に終わったようである。
 時代は変わっても、特定球団に強い思い入れを抱くドラフト候補生は出現する。密会なんて手口はあり得ないが、当該球団の間で何かのシグナルが送られるのかもしれない。ドラフト会議当日は出席者の表情にも要注意である。(一部敬称略 了/スポーツライター・美山和也)

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