青山学院大時代の88年に当時芸能界デビューへの登竜門と言われた「クラリオンガール」に選ばれ、健康的な水着姿を披露。同年、おそらく最初で最後の写真集「Ren ho」を発売。今でいう“手ブラ”やビキニ型に泡まみれになる悩殺ショットを公開したのだが…。
「美貌は際だっていたが、当時は歴代のクラリオンガールと比べると人気はなかった方で、あのまま消えていてもおかしくなかった」(ベテラン芸能記者)
ちなみに、写真集は1580円(税込み)で現在は絶版となっているが、“仕分け効果”かネットオークションでは2倍以上の値段で取引されている。
同年、TBS系「セーラー服通り」、フジテレビ系「君の瞳をタイホする!」という話題のドラマに立て続けに出演したが、いずれも端役だった。
転機となったのは89年10月、ビートたけしが司会をつとめていた日本テレビ系「スーパージョッキー」のアシスタント司会への抜擢だった。
「初回からたけしに『邪魔しないでください』とダメ出し。そのキツイ性格が逆にたけしに気に入られてようで、その後は『ナマイキ蓮舫です』と開き直っていた。ここで“仕切り”を学び、以後はバラエティーやワイドショーの司会をメインにこなしていった」(同)
93年4月からはテレビ朝日系「ステーションEYE」のメインキャスターをつとめ、阪神淡路大震災の現地リポートなど体当たりで取材をこなしたが95年10月の降板。
以後、あまり表舞台には登場しなくなり、93年に結婚したフリーライターとの間に、97年双子を出産。
04年の参院選で初当選を果たし、1期目にして今や民主党の顔に。夏の参院選に東京選挙区から出馬するが、今振り返ってみると、「スーパージョッキー」に出演していなければ今の活躍はなかったかも知れない。
「いわば、たけしは“恩人”なのに、好き勝手なことを言われるのを警戒して共演はNG。一度、『映画監督の北野武氏との対談はどうか』とオファーしたが、それもNGだった」(テレビ朝日関係者)
実績だけをみると、タレントとしては一流とは言えないが、徹底的に“仕切り”を身につけたことが事業仕分けでのドSっぽい仕切りっぷりに大いに役立っていることは間違いない。