華原というと、昨年引退した音楽プロデューサーの小室哲哉氏に見初められ1995年にメジャーデビュー。『I BELIEVE』『I’m proud』などミリオンヒットを連発したシンデレラガールである。日本レコード大賞(新人賞や優秀作品賞)を始め、音楽界の名だたる賞を総なめ。96年からの3年連続を含め、紅白歌合戦にも5度出場を果たし、単に運だけではなく、歌手としての実力を見せつけた。
また、小室氏とはプライベートでも親密交際に発展したが、破局が伝えられた1999年に華原は倒れ、芸能活動を一時休止した。度重なる騒動を経て00年にも再び休養。07年には所属事務所から契約を解除され、12年12月に復帰するまでに5年の歳月を要した。近年は、馬術選手としての活躍で話題を呼んだが、かつての歌姫は“お騒がせキャラ”としての地位を確立してしまった。
ここまでの話は、華原の「栄光と転落」として世間に知れ渡っているようだが、華原が芸能活動を始めたのは1993年。小室氏と出会う2年前までの華原の姿は“黒歴史”に等しいだろう。
「華原は1990年に『国民的美少女コンテスト』に応募したのだが、本選前の親子面接で母親が芸能界入りを反対し、出場を断念したそうだ。だが、方々からのスカウトによって、結果的には芸能界に足を踏み入れた。当時は、“三浦彩香”と名乗り、たわわな乳を武器にグラビアアイドルとして活動を始めたという。女性誌のモデルや、『さんまのナンでもダービー』(テレビ朝日系)でアシスタントを務めるなど、ちらほら露出を遂げていった」(芸能関係者)
だが、2015年11月に放送された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)に出演した華原は、“三浦彩香”時代は「歳をごまかしてクビになった」と激白。「4つぐらいサバ読んで、19くらいの時に15…。顔が幼いからそれでいいって言われて」と年齢を偽っていたことを告白した。
また、1994年に“遠峯ありさ”に芸名を改めた当時を回顧し、「アイドルという言葉は私に適してないと思い、下ネタとかも言っていた」とぶっちゃけた。さらに華原は、「あの頃が一番楽しかった。イキイキしている本当の自分が出せていた時期」と、歌姫時代よりもまんざらではなかったと語った。
「華原は、深夜番組『天使のU・B・U・G』(フジテレビ系)に出演。番組恒例の『水中カルタ』では、自慢のボディーを惜しげもなく披露し水槽に入り、対戦相手とは決死の乱闘を繰り広げた。時には“V字”全開などのサービス旺盛さで番組を盛り上げていたが、想いが通らないとフテ腐れ、知能の低さを物語っていたという。また、事務所社長には暴言を吐き捨てた挙句、ケリを入れる始末。かと思いきや、華原自身の局部を自ら社長の顔に押し付けMっ気満載なサービスを放出し、下ネタを連呼する天真爛漫な“やさくれキャラ”で馴染まれていたという。さらに、『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)の“近未来警察072”のオーディションに参戦し、松嶋菜々子とともに最終選考まで残った逸話もあるそうだ。惜しくも落選したが、仮に合格していたら“華原朋美”は存在しなかっただろう」(芸能ライター)
華原は、前出番組で“華原”への改名について、「ある出会いをきっかけに“トモちゃん”という名前が出てきて、それは計算された不思議キャラだった」と告白している。世間は、筋金入りの“天然”かと思い込んでいたが、実際は巧妙に計算尽くされた芸能人生であったのかも知れない。
今回、妊娠までの展開が早過ぎて不安視されているようだが、下積み時代のようなたくましさで、高齢出産を乗り越えて欲しいものだ。