同番組は、月に1回金曜日の夜に放送され、今年デビュー50周年を迎えた松任谷が毎月、豪華なゲストとともにトークと音楽を披露。松任谷は「今一番会いたいゲスト」として、郷を指名した。
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郷は、15歳の時にジャニーズ事務所の創設者である故・ジャニー喜多川さんの目に留まりスカウトされた。1972年、NHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューし同年8月、シングル「男の子女の子」で歌手デビューした。以降は、女性を中心に絶大な人気を博し、ファンによる親衛隊も誕生するなど一時代を築き上げた。1975年、事務所を移籍するも1984年発売の「2億4千万の瞳」、1994年の「言えないよ」は爆発的なヒットとなり、今なお名曲として語り継がれている。
そんな郷が25歳のときの1981年5月、報知新聞(報知新聞社)が1面で「聖子・郷結婚!」とスクープ。さらに『日刊スポーツ』(日刊スポーツ新聞社)は、「結婚へ!郷ひろみと松田聖子」と報じ、当時19歳だった歌手・松田聖子との熱愛が大々的に報道された。
「そもそも松田は、同郷(福岡)の郷に憧れて芸能界に入ったといわれています。当時、松田も郷に引けを取らない人気を得ており、2人の交際報道は日本中に激震を走らせましたが当時では珍しくオープンな交際でした。また、1984年末の『NHK紅白歌合戦』ではオープニングで2人が手をつないで登場したうえに“競演”を果たし、それぞれの出番においては色を添えるようなダンスパフォーマンスを繰り広げたのです」(芸能ライター)
ところが年が明けた1985年1月、『週刊文春』(文藝春秋)で松田が郷との別離を告白したのだ。同月、急きょ映画の撮影が行われていた東京・砧撮影所で会見が開かれ松田が単独で応じた。会見では大粒の涙を流し、嗚咽混じりで「好きで愛し合って別れるんだから、今度生まれ変わって来たときには、きっと一緒になろうねって言いました」と郷との別れが円満だったと強調した。
「会見は当時、ワイドショーなどで繰り返し流され流行語となったほどでしたが、涙の会見から10日後に主演映画のポスター撮影のため、米・ハワイに旅立つ直前の松田が、自身の主演映画『カリブ・愛のシンフォニー』(1985年4月公開)の相手役で俳優・神田正輝と堂々の交際宣言をしたのです。さらに1985年4月に神田との婚約を発表し、同年6月に結婚。その際、あるレポーターから『生まれ変わったらもちろん、神田さんと一緒になりたいですか』と松田に質問をぶつけられる一幕も。さすがの松田も表情を曇らせ、少し間が空きつつも『はい』と答えたようです」(芸能ライター)
ところが、松田の“名言”が“でっち上げ”であるという疑惑が浮上する。1985年6月、郷は故・樹木希林(当時、悠木千帆)さんと『サンデー毎日』(毎日新聞出版)で対談。対談記事の見出しは「コケにされた男の正しいコケ方」で、樹木さんから破局の真相をツッコまれた。
これに郷は、「フラレるまで気がつかないんだから……。彼女が“別れる”という記者会見するまでネ」と激白。さらに、松田の“今度生まれ変わって来たときには…”という名言については「僕はああいうことは聞いてないんですよ」ときっぱりと否定し、「もし彼女(松田)がそう言ってたとしてですよ、僕が『わかった』なんて言えるわけないじゃないですか、いくら何でも約束できないもの」と釈明した。郷の告白が事実ならば、松田の涙は演技の小道具に過ぎずに郷は捨てられたあげく、神田と二股をかけられていた可能性も否定できなくもない。
だが一方で、2人の破局の原因について「結婚したら引退して家庭に入ってほしい」という郷と、「仕事と家庭を両立したい」という松田との溝が埋まらなかったことで泣く泣く結婚を諦め別れたと、2020年9月のニュースサイト『日刊ゲンダイDIGITAL』が報じている。結局、破局の真相は当人のみぞ知るということだろう。
1987年、郷は元女優で実業家・二谷友里恵氏と結婚し、2女をもうけるも1998年4月、離婚。その後、2度再婚に至る。一方の松田も神田とは1997年1月に離婚、その後に郷と同じく2度、再婚を経た。
郷は今年、芸能生活50周年を迎えた。数奇な運命をたどるかつてのビッグカップルの共演に期待したいところだ。