オールドファン中心に、石井復帰に歓喜するのには理由がある。石井は1988年にドラフト外で足利工業高校から横浜大洋ホエールズにピッチャーとして入団し、ルーキーイヤーに初勝利を挙げ幸先の良いプロ生活をスタート。しかし3年目には野手転向を決意し、名前も忠徳から琢朗へ変更するとその年にサードのポジションをゲットした。
93年に横浜ベイスターズに球団名が変更されてからは俊足巧打・攻守のプレーヤーとしてサード、ショートのポジションをこなし、打順も1、2番として存在感を発揮した。98年には選手会長に就任し、不動のリードオフマンとして優勝に貢献。2006年には2000本安打を達成するなど“ミスター・ベイスターズ”と呼ぶのにふさわしい活躍を見せた。しかし2008年にベイスターズは無情にも戦力外を通告し、カープに移籍。2012年に引退するまで赤いユニフォームを着て戦った。
若い時期から中心選手として活躍し、決して強くないチームを牽引し、優勝時の日本シリーズではもはや伝説となっている初打席でのセーフティバントヒットを鮮やかに決め、チームに勢いをつけることに成功。その後佐々木主浩氏、谷繁元信氏ら優勝メンバーが次々とチームを離れ、TBS時代の暗黒期にもチームを鼓舞した石井にもあっさりと戦力外を通告する球団にファンはじくじたる思いを抱いていた。
それでもカープに移籍する際、ベイスターズファンに対し感謝イベントを自腹で開催。カープも同じ応援歌を継承し、横浜スタジアムでの引退試合での360度の大合唱は、いまでも語り草となっている。
そんな特別なスターが14シーズンぶりに帰ってきた。トレーニング合流初日には「ここにいた時は、成績やファンの声援など、与えられたものを与えられたまま出ていってしまった。逆に今度は自分がチームに対して与えられればなと、すごく思います」と、当時の不遇を知るファンにとって、さらに泣かせるセリフを発した石井琢朗新コーチ。他球団を渡り歩いたエキスを元に、ようやくたどり着いた横浜の地でその手腕を存分に発揮してくれるだろう。
取材・文・写真 / 萩原孝弘