事件が起きたのは6月27日の夜遅く。この日、Aさんは所属する音楽サークルのコンサートに出席し、終了後の打ち上げに参加していた。サークルには、同じ短大に通う姉も所属しており、打ち上げもAさんと共に出席していたそうだ。22時30分ごろに1次会が終わり、姉は2次会へ向かったが、Aさんは「風呂に入りたい」と姉に伝えて帰宅。ほかの女子学生3人と一緒に1人の男子学生に送ってもらい、自宅アパート付近の交差点で「すぐそこだから」と言い残して彼らと別れている。このときの時刻は23時15分頃だったという。
一方、姉が参加していた2次会も、Aさんらを送っていった男子学生が戻ってほどなくお開きとなったそうだ。そして、6月28日0時30分頃、友人と共に自宅アパートに帰宅した姉は、台所で横たわる妹を発見。姉らは近くに住む友人のもとに助けを求め、事情を聞いた友人が公衆電話から警察に通報した。しかし、警察官が到着した時にはすでにAさんは死亡していた。
発見当時のAさんの姿は、上半身はTシャツを胸までめくられ、下半身は裸の状態だったという。警察による検死の結果、死因は首を絞めつけられたことによる窒息死であることが確認された。
警察は現場検証と共に、付近に住む住民への聞き込み捜査を開始。中でも、被害者の隣室に住むBには執拗な事情聴取が行われた。AさんとBは廊下ですれ違う程度の面識はあったが、会話した事はなかったという。Bは「酒を飲んで寝ていたので何も覚えていない」と繰り返すだけであったが、警察はBに対して下着や毛髪の任意提出、さらには身体に残された傷の写真撮影を行った。しかし、長引く事情聴取に嫌気がさしたBはこれ以上の聴取を拒否。この時点ではBの逮捕に結びつくような証拠は何も無かった。
事態が動いたのは同年12月28日。科警研からBの毛髪鑑定の結果が届き、被害者の部屋に残された体毛と同一であることが判明した。物証を手に入れた警察は、翌年の1982年1月14日にBを逮捕。逮捕当初は容疑を否認していたBだが、1月18日は「私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑を掛けて申し訳ありません」と犯行を自白した。
しかし、Bは第一審が始まると再び供述を変更。「被害者の部屋にいたことは覚えているのですが、自分がやったという記憶がありませんので、はっきり分かりません」と述べた。
第一審ではBの自白と科警研の毛髪鑑定を重視して無期懲役の有罪判決が下されるも、控訴審では「事件現場の遺留品であった犯人の毛髪は直毛であり、事件当時パンチパーマだった被告人と一致しない」といった矛盾が指摘され、1995年6月30日に無罪判決が出された。その後、検察は上告を断念してBの無罪が確定。この時すでに事件発生から14年が経過していた。
裁判では、弁護側から毛髪鑑定の曖昧さが指摘され、決定的な個人識別はできないものと主張。後にDNA鑑定も行われたが、これにおいても実際に鑑定結果の信用性が疑われており、結果的に有罪判決に繋がる証拠にはならなかった。
犯人が土足で侵入した形跡がないことや、「どうして、どうして」「教えて」といった叫び声を近隣住民が聞いていた事から、事件当初から顔見知りの犯行が疑われていた。しかし、Bの無罪判決が確定後も警察は再捜査を行っていない。事件当初からBをマークしていた警察だが、彼への徹底した捜査活動が、結果的に真犯人を取り逃がす大失態を招いてしまったのかもしれない。