当時、アリの人気は凄まじかった。「ボクシングこそ史上最強の格闘技だ」。カシアス・クレイからモハメド・アリと改名し、世界王者に就いたこの男の言葉を疑う者はいなかった。
他方、当時は力道山時代と違い、プロレスの強さを心から信じる日本人は少なくなっていた。どんなに人気があっても大新聞はプロレスの話題を取り上げず、スポーツ新聞でさえ、プロレスの記事を扱わなくなっていた。
「自分たちは世間から蔑まれているのか…」
そのような時代背景の中で動き出したのが、あの異種格闘技、頂上対決だった。
「ボクシングとの試合であれば大新聞が記事にする。アリと対戦したい」
猪木の突拍子のない申し出に反対する人が多かったが、当時、新日本プロレスの営業本部長だった私はすぐに賛同した。ずっと同じ思いを持ち続けていたし、猪木のプロレスラーとしての実力、強さを知る私には、実現させる策も、成功させる自信もあったからだ。
試合前年の1975年6月、マレーシアで防衛戦を行うアリはトランジットで東京に立ち寄り、ボクシングの記者会見をした。その席でアリに「挑戦状」を突き付けたのだ。
実は、その3カ月前、アリは日本レスリング協会の八田一朗会長に「誰か東洋人で俺に挑戦するヤツはいないか?」とリップサービスをしていた。そこで「相手をお探しなら応じますよ」と申し出たわけだ。これにアリが「イノキなんてレスラーは名前も知らないが、いつでも相手になってやる」と毒づいた。これにメディアが「猪木VSアリ戦、実現へ」と一斉に飛びつき、猪木ですら驚いた対決の流れができた。
ここからが大変だ。アリとのファイトマネーは600万ドル(約18億円=当時)。半分は全米21カ所のクローズドサーキット(有料生中継)で賄うとして、残り300万ドル、当時のお金で9億円…。不可能と思いながらも、猪木、倍賞美津子(元猪木夫人)、坂口征二ら、みんなで必死になってかき集めた。
試合は土曜日の昼間に行われ、米国へも衛星中継された。日本ではその夜にも再放送され、昼は平均視聴率38.8%、夜は29.9%。まさに、日本中が注目する一戦となった。