現在、「目黒記念」に名を残す目黒競馬場は、現在の日本競馬の礎を築いた競馬場でもある。目黒通りには「元競馬場」というバス停があり、その近くの元競馬場交差点の脇には、初代ダービー馬ワカタカの父である「大種牡馬トウルヌソル」の小さな銅像が建っている。大鳥元競馬場通り商店街とJRAが1983年に建てた目黒競馬場跡の記念碑だ。そこに刻み込まれているのは「明治40年、政府の馬質改良推奨により、この場に競馬場を設立した」と記されている。
第1回の今回は目黒競馬場の誕生までをお伝えしたい。当時、日本の競馬場で馬券(勝ち馬投票券)が発売されていたのは、外国人経営の根岸競馬場だけだった。しかし、日本馬の改良を急務にした政府は競馬人気を高めるため、馬券の導入に踏み切った。
明治39(1906)年には政財界の音頭で、馬券付き競馬運営の母体「東京競馬会」が発足。総裁には閑院宮親王が就任し、名誉会員には元老、大臣、元帥、陸海軍大将、各国大公使らが名を連ねた。この馬券付き競馬の人気は全国に波及し、法人組織の競馬会の許可および出願は、横浜、名古屋、大阪、広島、福岡等、全国10数カ所に及び、各地に競馬場が相次いで発足した。
そして、その年、東京競馬会は池上競馬場(大田区池上)を開設。同年11月24日には、この競馬場で本邦初の本格的馬券付き競馬、東京競馬会第1回秋季競馬が行われた。池上競馬場には、多くのファンが殺到。大盛況となり、以後、全国の競馬場で馬券が発売され、競馬人気を呼んだ。
それから1年後の明治40(1907)年、東京ジョッキー倶楽部が板橋競馬場(現・板橋区栄町)を開設したのと合わせ、目黒競馬場は東京府荏原郡下目黒村(当時)に、日本競馬会主催の下、“産声”を上げた。
※参考文献=目黒区50年史/月刊めぐろ(80年5月号)/みどりの散歩道