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被災した「なんでんかんでん」川原社長が語る東日本大震災の惨状(2)

 東日本大震災で被災した、マネーの虎でおなじみのラーメン店「なんでんかんでん」川原ひろし社長(47)が、恐怖の津波体験を語ってくれた。地震直後、出店していた店を片付けようとしていた川原氏に、イベントの係員数人が血相変えて飛んできた。「なにやってんですかっ! 早く隣のビルに避難してください!」

 −−強制避難させられた?

 川原 いま考えると、本当にイベント係員には感謝してもしきれないぐらい…。命の恩人ですね。係員は来ていたお客さんには「津波の危険があります。いますぐ高台に避難してください」と声を掛けて回っていました。なので、お客さんは車などですぐ立ち去っていきましたね。残念ながら、その後の消息は確かではないので滅多なこと言えませんが、ほとんどのお客さんは津波自体からは逃げきれたのではないかと。

 −−残る出店スタッフはどうした?

 川原 (現地のアルバイトなどを含めて)約700人のスタッフがいたんですが、イベントスペースのすぐ隣にある「仙台港国際ビジネスサポートセンター」の4階と5階に急いで避難してくださいと言われたんです。もう、取るものも取りあえずという感じで…。ボクも上着だけ羽織って駆け上がりましたよ。ビルに全員が避難するまで20分ぐらいだったかな。

 −−結果としてイベントスタッフに誰も犠牲者はでなかった?

 川原 仙台放送局が主催するイベントだったんですけどね。すべてにおいてパーフェクトでしたね。実は、あの震災の数日前に起こった地震で「避難場所の確保」と「避難誘導の指示」の訓練は徹底してやられていたみたい。地震後、当然電気はストップ、津波警報は出ていたと思うけれど、細かい情報が入らないなかで混乱せずに避難できたのは、やはり仙台放送の係員のお陰としか言いようがありません。

 −−すぐに津波が来た?

 川原 いやいや! すぐには来なかったんだよ仙台港は! だから逃げる時間もあったのは確かだし、人によっては「来ないじゃないか」と判断して、自宅の様子を確かめるために戻って犠牲になったケースもあるのではないかな。ボクらの避難が完了してから実際に大津波が来たのは、1時間以上経ってからだったから。

 −−避難してどんな心境だったか?

 川原 実はボクもその時は、こんな未曾有の津波が来るとは思ってなかったさ。みんな無事でケガなどしていないし、片付けにも戻りたかった、正直に言うとね。しかし係員が「大津波警報が解除されるまで絶対にここから出しません」と言う。30分が経ち、1時間が経ち、もう来ないんじゃないかと思い始めた頃だよ…。外を見ていた女の子が「キャーッ!」って言い出したんです。人をかき分けて窓に近づいたら…。

 −−現在ニュースで流れているような惨状だった?

 川原 …地獄ですよ。波が…一挙に押し寄せてくる。車も何もかも簡単に飲み込んで…。走って逃げてる人がいるのよ、遠くに。すぐ飲み込まれていった。車も猛スピードで逃げてたけど最後は…。その時間、雪が強くなっていて吹雪ですよ。上は見通しが利かないぐらいの白い景色、下は濁流、波がビルにあたってシブキを上げる。流されていく人が何人もいるんだけど、助けようにも、もう何もできない…。

 −−地獄絵図だった?

 川原 これはとんでもないことになったなあ、と。津波が引くとね、流されひっくり返った車が次々発火するんですよ。もうあちこちで火事みたいになって。でも、どうすることも出来なかった。まんじりともせずに朝を迎えたんですよ。明るくなって外に出てみると、潮の臭いにむせかえりそうになったボクらが見た景色は目を覆わんばかりの惨状だった。

(つづく)

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