明治37年(1904)、与謝野晶子は、日露戦争で旅順に出征している弟への思いを『君死にたまふことなかれ』で詠った。パリへ渡り、イギリス、ドイツ、オランダなどを訪れる。『巴里より』(鉄幹と共著)、『人及び女として』ら評論集を刊行し、女性教育の自由と必要性を説く。現在、鉄幹と晶子が明治44年(1911)から4年間住んだ麹町区中六番町(現・千代田区四番町)には「与謝野鉄幹・晶子旧居跡」のプレートが建てられている。
大正10年(1921)には、晶子は、鉄幹らと共に「文化学院」の創設に関わり、日本初の男女共学を成立させた。2011年に創立90周年を迎えた「文化学院」は、現在もJRお茶の水駅(東京都千代田区)近くに建つ。
与謝野鉄幹・晶子は、昭和2年(1927)に、豊多摩郡井荻町(現・杉並区南荻窪)に移転した。「遥青書屋」「采花荘」と名づけた二棟の家を構え、歌会を開き、各地を旅行した。鉄幹・晶子の住居があった場所は、現在、「南荻窪中央公園」になっている。公園入り口に碑があり、「歌はどうして作る/じっと観/じっと愛し/じっと抱きしめて作る/何を/「真実を」(「歌はどうして作る」より・与謝野晶子)」と掘られている。
与謝野晶子は、昭和3年(1928)から11年(1936)頃にかけて、たびたび神奈川県の鎌倉を訪れた。稲村が崎にある有島生馬邸や知人別荘を訪問した。夏目漱石の『こころ』の中で主人公の「私」が「先生」と知り合うきっかけの一つとして登場する「海浜ホテル」にも滞在した。現在、鎌倉の大仏様で知られる「高徳院」に、与謝野晶子歌碑がある。数多い鎌倉を詠んだ歌の中から「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におはす夏木立かな」が刻まれている。
与謝野晶子は荻窪の地で生涯を閉じることになるが、鉄幹・晶子が転居した当時の荻窪は、一面に田んぼが広がり、稲や水のにおいが立ちこめる武蔵野の地だった。晶子は、昭和14年(1939)に『新新訳源氏物語』を完成させる。昭和17年(1942)に永眠した。(竹内みちまろ)