その狂歌をもとにして、江戸末期(1849年)には歌川芳虎が「道外武者御代の若餅」なる浮世絵を描いたともされており、絵そのものは現存している。ところが、浮世絵には全く異なる句が添えられており、また落首を記した同時代の記録などは伝わっていない。そのため、浮世絵は本当に「天下餅」をもとに描かれたのかどうか、さらには狂歌の実在についても確かなことは言えないのだ。
では、誰がいつごろ「天下餅」の狂歌を言い始めたかというと、現段階では明治時代の論客として名高い宮武外骨とされている。宮武外骨は新聞や雑誌を数多く創刊し、なかでも「滑稽新聞」と「スコブル」は日本の大衆文化史に大きな足跡を残したとされる。また幕末から明治にかけての世相風俗にも深い関心を寄せ、明治44年に出版した「筆禍史」は江戸幕府が出版や言論を取り締まった「筆禍」をまとめた資料として知られている。
その「筆禍史」に「道外武者御代の若餅」が徳川批判として取り締まられたと記されており、その中に「天下餅」と浮世絵の関係も述べられている。ところが、そこにはこのようにも記されている。
右の事実は古記録にて見たるにあらず、画者芳虎は明治の初年頃まで生存し居り、其頃同人直接の懐旧談にて聞きしといへる、某老人の物語に拠れるなり。
ざっくり言うと又聞きで、浮世絵が取り締まられた記録を発見したものではなく、作者の歌川芳虎から狂歌の話と取り締まられたことを聞いた老人が、さらに宮武外骨へ伝えたというものだ。また、老人の名前はもちろん、素性をうかがわせる情報もなく、厳しく表現するならネットのうわさ話と変わらない。
とはいえ、宮武外骨という著名人がわざわざ著書に収録したのだから、当時はなにがしかの根拠が存在したのだろう。そして、素性のしれない老人が伝えた狂歌と、その物語が現在に至っているというわけだ。
果たして真相やいかに?
(了)