上田さんは40年6月20日、愛知県海部郡(現弥富市)出身。大相撲追手風部屋を経て、60年に日本プロレスに入門。61年4月に故平井光明(スーパー・ヘイト=平井伸和選手の父)戦でデビュー。同団体時代はファイトスタイルも地味な中堅レスラーの域を脱せなかったが、故ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木ら主力選手が離脱した後の73年3月には、故大木金太郎さんとのタッグでインタータッグ王座(現在は世界タッグ王座に統合)を奪取した。
同団体崩壊後、いったんは故馬場さん率いる全日本プロレスに合流するも、待遇への不満等の理由でフリーとなり渡米。全米で悪役として活躍した後、76年に国際プロレスに参戦。故ラッシャー木村さんを破って、IWA世界ヘビー級王座も奪取した。当時は日本人=善玉、外国人=悪役の図式があり、日本人でありながら、金髪で悪役としてファイトした上田さんは、まさに日本人悪役レスラーの魁となった。
77年からは新日本プロレスに戦場を移し、タイガー・ジェット・シンと凶悪コンビを結成。このタッグチームは、上田さんの代名詞にもなり、日本中のファンを恐怖のドン底に陥れた。78年2月には猪木とリング下に釘板ボードを敷き詰めて闘う釘板デスマッチを敢行し、プロレス史において伝説の一戦となった。
81年からは全日本に参戦し、ここでもシンとの凶悪タッグで猛威を振るい、インタータッグ王座も奪取した。その後、新日本に出戻り、正規軍とも共闘。日プロ時代、「ガチンコに強い」といわれていた上田さんと、シュートスタイルのUWF軍との激突は注目を集めた。
新日本から去った後はNOW、第2次NOW、IWAジャパンといったインディー団体でファイト。そのIWA参戦時の96年3月、巡業で移動中の車が交通事故に逢い、上田さんは脊椎損傷の大ケガを負い全身不随の身となった。
事故後は熊本県内の病院で治療、リハビリに当たっていたが、98年4月に新日本、力道山OB会協力の下、熊本で引退興行が開催され、上田さんも車椅子で姿を見せた。退院後しばらくは熊本県内で暮らしていたが、夫人の故郷である臼杵市に移り住み、夫人とリサイクルショップを営んでいた。事故から実に16年、上田さんの苦しく厳しい闘病生活は幕を閉じた。
かつてのライバルである猪木は、「また一人、同じ時代を過ごし、闘いを通じて信頼し合えた友人の旅立ちを見送るのは大変辛い気持ちです。謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントを寄せた。
なお、通夜は23日、葬儀は24日午後1時から臼杵市市浜堂尻1126の玉泉院臼杵会館で、家族葬として執り行われる。喪主は妻・恵美子さん。
(最強プロレスサイトBATTLENET/ミカエル・コバタ)