番組冒頭では、14日に急逝したマサ斎藤さんの訃報を伝え、故人を偲んだ。
マサさんは1967年に分裂や解散騒動で不安定だった日本マットに見切りをつけて渡米すると、NWA、WWF(現WWE)、AWAの70年代から80年代にかけて、世界3大メジャー団体と言われていた各団体を渡り歩き、ヒールのタッグプレイヤーとして、ローカルタッグは総ナメ。メジャータイトルではNWA世界タッグ、WWFタッグを獲得するなど、途中、師と仰ぐヒロ・マツダさんの誘いから新日本プロレスにフリー軍団として参戦したこともあったが、アメリカを拠点に活動していた期間が長く、WWFでトップのポジションを確保すると、長州力を呼び寄せ維新軍結成に向けたデモンストレーションも行っている。AWAに転戦後もWWFに移籍する直前のハルク・ホーガンと抗争を繰り広げており、アンドレ・ザ・ジャイアントと抗争したキラー・カーンとともにアメリカマット界のジャパニーズレインメーカーとして、全米のプロモーターを潤していた。
WWEでは、WWFタッグ王座を2度戴冠したことも高く評価されているだけに、今後殿堂入りする可能性も十分にあるだろう。
日本でも、かつてマサさんが追い続けたアントニオ猪木が「巌流島の闘いは忘れられない」と追悼のコメントを出すと、マサさんと同じくアメリカのメジャー団体でトップヒールだったグレートムタの化身である武藤敬司が「お互いにアメリカマットで活動していたこともあり、一番話が合う大先輩だった。豪傑な中に繊細な心を持ったマサさんは、とてもチャーミングな方だった。お元気になられたら(プロレスリング)マスターズにもお声掛けしようと思っていただけに…悲しい」と追悼のツイート。他にも明治大学で同級生だった坂口征二新日本プロレス相談役ら、マサさんと関わりがあった選手や関係者から、突然の死を悔やむ声が止まらない状況だ。
17日には、AbemaTVでも追悼番組を放送し、パーキンソン病の震えと戦いながら、2016年12月2日に、大阪で開催された上井文彦氏のプロデュース興行のリングに立ち、武藤扮する海賊男に襲撃されながらも、奇跡的に自分の足で立ち上がり、海賊男をキックで制裁するまでを、復帰に向けたリハビリから密着したドキュメンタリーの再放送が、大きな反響を呼んだ。引退まで所属をしていた新日本プロレスでは、19日の後楽園ホール大会の試合前に、急遽マサさんの追悼セレモニーを行うことを発表。10カウントゴングでマサさんを追悼する。
このように、マサさん逝去のニュースは日本のみならず、世界のプロレスファンや関係者も驚かせた。それだけマサさんが世界的なレスラーだったということである。
文 / どら増田
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