マサさんといえば、『Go For Broke!!(当たって砕けろ!)』という格言が有名だが、最後まで諦めずに、それを貫き通したのは素晴らしいの一言だ。
私がマサさんの試合で好きな試合はいくつかあるのだが、長州や故・橋本真也さんとのタッグは非の打ち所がない名タッグだった。彼らはマサさんとのタッグでレスラーとしてのステータスを上げて、団体のトップを張れるレスラーに成長した。先日亡くなられたビックバン・ベイダーも、あのハルク・ホーガンもマサさんを慕っていた。彼らもマサさんと関わったことで世界のトップレスラーに登りつめていくことになる。
アメリカから帰国し、日本に生活拠点を移してからは日本人、外国人問わず、お目付役的な役割に徹していたマサさんだが、あの東京ドームでスーパースターになったことが1度だけある。それは今から28年前の1990年2月10日、新日本プロレスにとって2度目の東京ドーム大会となった『'90スーパーファイトIN闘強導夢』。アントニオ猪木が初めて「1、2、3、ダァー!」を行い、マサさんも練習を見た元横綱、双羽黒こと北尾光司のデビュー戦、ベイダー対スタン・ハンセンの最強外国人対決をはじめとする急転直下で決まった新日本と全日本プロレスの団体対抗戦などなど、とにかく当時のファンにとっては内容が盛りだくさんで、夢のある大会だった。新日本は当初、IWGP、NWA、AWAの世界3大ヘビー級タイトルマッチを大会の目玉にしていたが、NWA世界ヘビー級王座を管轄するWCWがリック・フレアーとグレート・ムタのタイトルマッチをキャンセル。その代わり全日本との対抗戦が実現するのだが、AWA世界ヘビー級王者、ラリー・ズビスコには藤波辰爾が腰痛からの復帰戦として挑戦すると発表されていた。しかし、藤波の復帰が間に合わず、新日本はAWAに精通しているマサさんに白羽の矢を立てたのである。
この試合は、新日本対全日本のドリームマッチ直前にラインナップされ、長州とともに新日本からジャパンプロレスに移籍し、全日本に参戦していたマサさんだが、アメリカマットでの活動を優先させ、ほぼ無罪にもかかわらず、事件に巻き込まれてしまい1年半の刑務所暮らしを送ったため、全日本に参戦できないまま、新日本にUターンを決めた長州に少し先行する形で新日本に復帰した経緯から、この日多数詰めかけた全日本ファンからもマサさんへのアレルギーはほとんどなく、まさに東京ドームはオールジャパンでマサさんのAWA王座奪取を声援で後押しした。ズビスコの殴る蹴るだけで成り立たせてしまうプロレスに、マサさんのパワーファイトがスイング。最後は必殺の捻りを加えたバックドロップ2連発から、首固めでマサさんが47歳にしてジャンボ鶴田さんに続く日本人で2人目となるAWA世界ヘビー級王者を戴冠した。余程気分が良かったのだろう。マサさんはホーガンのようにリングの四方でマッチョポーズのパフォーマンス。この試合を大会ベストバウトに挙げる声も多い。マサさんがベンチ裏に入ったと同時に、プロレスの会場では初めてウェーブが発生。私も外野席でこの大会を観戦していたが、ドームがあんなに揺れた大会は後にも先にもあの2.10ドーム大会しかない。マサさんの王座戴冠は、プロレスファンでいて良かったと思わせるものだった。
余談だが、もし藤波辰爾が復帰していたとしても、藤波は鶴田さんとのタッグマッチに回ることになっていたそうで、どちらにせよマサさんがAWA王座に挑戦する運命だったようだ。ホーガンやベイダー、ザ・ロード・ウォリアーズなど、マサさんと親交があった外国人選手はみんなAWA繋がりなだけに、当時既に価値は落ちていたが、かつてNWA、WWF(現WWE)とともに世界3大王座と言われていたAWA世界ヘビー級王座をAWA創始者である“帝王”バーン・ガニアが存命中に獲得できたというのはかなり嬉しかったはずだ。ちなみに、同年4月に東京ドームでWWF、全日本、新日本が3団体合同興行として開催した『日米レスリングサミット』には、マサさん、鶴田さん、リック・マーテル、カート・ヘニング、スタン・ハンセンとAWA世界ヘビー級の歴代王者5選手が出場している。
マサさんの遺伝子を持つレスラーは数多くいるが、最後の愛弟子となったプロレスリング・ノアのマサ北宮には、マサさんが達成できなかった日本の団体のトップのシングルベルトを奪取してもらいたい。
私はマサさんの試合から諦めない気持ちを学んだ。1987年10月4日の猪木との巌流島決戦は2時間5分14秒の死闘。この試合時間は永遠に破られないだろう。私も恐れることなく、当たって砕ける人生を送りたいと思う。
合掌
文・写真 / どら増田