年代順に紹介しよう。1991年の関屋記念を優勝したニフティニース(12戦7勝)は90、91年の夏の新潟競馬で(2)(1)(1)(1)(1)着と記録的な活躍をした新潟競馬の“申し子”だった。
「牡馬みたいなたくましい体をしていた。素直で乗りやすかったし、スピードは半端じゃなかった」と言う。関屋記念に続き、返す刀でセントウルSをレコードで制覇。重賞2連勝の快挙はまさにニフティニースの真骨頂だった。
一方、その半弟で94年の七夕賞を優勝したニフティダンサー(28戦7勝)は、「気性が悪くて走ることに集中しなかった。みんなが敬遠していた」と竹原さん。何しろ、馬優先主義の岡部騎手(現評論家)も音を上げた(?)ほどだったとか…。
全7勝中、岡部騎手とのコンビで勝ったのはデビュー戦の新馬1勝のみ。残りの6勝は竹原さんが手綱を取っている。癖馬とレッテルを張られたニフティダンサーも、ひとたび竹原さんが乗れば、借りてきた猫のようにおとなしく従順だった。
断腸の思いも経験した。「無事だったらダートのGIを勝てたと思う」竹原さんの表情が初めて曇った。93年の根岸Sを優勝したプロストライン(16戦7勝)のことである。
「とにかく、ダートはめちゃくちゃ走った」と言うように、93年夏の新潟の北陸Sをレコードで快勝。ダートの鬼の片鱗を示している。しかし、それから1年後に悲劇的な結末が待っていることなど、神のみぞ知るところだ。
翌年の夏、東海Sを勝ったあり余る勢いで臨んだ関越Sでレース中に故障(骨折)を発症し競走中止。その場で薬殺の処置が取られた。
これも、“ガラスの脚”と言われるサラブレッドの宿命…そう片付けるのは簡単だが、竹原さんの騎手人生の中で、喜びも悲しみも合わせ鏡のように切っても切れない。