search
とじる
トップ > レジャー > 遠い記憶 根岸競馬場の歴史(3)

遠い記憶 根岸競馬場の歴史(3)

 1866(慶応元)年末、幕府と英米蘭各国公使の間に「横浜居留地改造及競馬場墓地契約書」が交わされ、いよいよ根岸競馬場に、蹄の音と居留外国人の歓声が響くこととなる。
 その記念すべき第1回競馬は翌1867(慶応2)年1月10日、「Winter Meeting(冬季競馬)」として、好天の下、にぎやかに催された。この日は8つのレースが行われ、第3レースの勝ち馬はサムライという名で、第5レースは「日本選手権」のタイトルがつけられた。
 以後76年間、根岸競馬はほぼ毎年4、5月ごろと、11月ごろの春秋2回で開催されていった。やがて開催日数は1869(明治2)年から3日間となり、さらに後には4日間、8日間へと増えていった。運営団体は当初、居留外国人たちで構成する横浜レースクラブで、1869(明治2)年の記録では会員が92人だった。

 しかし、競馬といっても初めのころは、居留外国人らの社交や娯楽色が強く、明治初年には競馬のほか、別当のかけっこや人力車競走などの余興がよく行われた。人力車はわが国に登場したばかりで、根岸競馬でも観覧者の足となっていた。
 1874(明治7)年の春季競馬でのこと。やはり別当競走や、人力車競走が行われるとあって、出場者たちがフンドシひとつで待機していた。これを見た警官が、人前での裸姿をとがめて捕らえようとしたところ、治外法権の意識を持つクラブ関係者らは、これをさえぎり、警官を場外へ追い出し、競走を強行したというエピソードも残っている。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

関連記事


レジャー→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

レジャー→

もっと見る→

注目タグ