このように、ユニット結成から歌手デビューまでのあいだに人数編成が繰り返されるのは、ジャニーズではよくあることだ。昨年、CDデビューから四半世紀を迎えたSMAPも、前身グループ・スケートボーイズのころは、およそ20人という大所帯だった。
同ユニットは、人気絶頂期の光GENJIのバックダンサーとして結成。テレビ出演の際の年齢制限を考慮して、あえて小学生から高校生という、幅広い層をメンバーにした。そのなかで、「SMAP」としてアイドル雑誌で紹介されたことがあるのは、現在の木村拓哉、中居正広、草なぎ剛、稲垣吾郎、香取慎吾に加え、デビュー前に芸能界を引退した岩佐克次、デビュー後の全盛期にオートレーサーへ転身した森且行。そして、TOKIOの国分太一、V6の坂本昌行だった。
ここからSMAPは1988年、中居と森を2大リーダーにしての歌手デビューが決定。惜しくも漏れたメンバーに、新規組を加えて誕生したのが新ユニット・平家派だった。ここでラストチャンスをつかんだのが、国分と坂本。新規組の城島茂、山口達也とTOKIOを組んだ国分、同じく長野博、井ノ原快彦とV6を組んだ坂本。結果的に、ほぼ同期のSMAPに水をあけられたものの、ギリギリのところで芸能界に残れた。
ちなみに、スケートボーイズと平家派には、野口隆史も在籍していた。しかし、歌手デビューの選考から落ちたことで行き詰まりを感じ、自主退所している。彼こそが、のちの反町隆史。さすがのジャニー喜多川社長も、野口改め反町を見る洞察力がなかったということか…。