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数え歌「一番はじめは」の謎

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画像はイメージです。

 ♪一番初めは一の宮、二は日光の東照宮、三は佐倉の惣五郎(宗五郎)、四はまた信濃の善光寺〜という歌詞で歌われる『一番はじめは』は、明治後期から昭和時代まで、全国で歌われていた手毬歌・お手玉歌である。歌詞は、作詞者未詳で、口承により伝えられ歌われていた。曲は、来日したフランス人が作曲した軍歌『抜刀隊』のメロディーを引用し、歌いやすいようにアレンジされている。
 
 「一番はじめは」の歌詞は16行からなる数え歌で、地方によりいろいろなバージョンがある。一般に御利益のありそうな神社仏閣尽くしの数え歌になっている。しかし、三番目の歌詞には、地方によって「三は讃岐の金比羅さん」と歌われるが、「三は佐倉の惣五郎」と、何故か突然に人物名が出てくるバージョンがある。佐倉の惣五郎は明らかに人物名で、これでは神社仏閣尽くしにならない。そもそも、佐倉の惣五郎とは、ご利益がある人物なのだろうか?
 
 佐倉 惣五郎(1605〜1653)は、江戸時代前期の下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。本名を木内惣五郎といい、俗称は「宗吾」という。惣五郎は、佐倉藩領藩主・堀田正信氏の厳しい年貢の取立てを藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかったので、承応2(1653)年、上野寛永寺に参詣する四代将軍・徳川家綱に直訴した。その罪で、惣五郎夫妻は磔刑、4人の子供は打ち首となった。
 実際に、公津村に惣五郎という百姓がいたことは、地押帳、名寄帳の記載があるので実在した人物であるが、惣五郎が将軍に直訴したという史実上の記録は無い。おそらく、江戸時代中期以降、『地蔵堂通夜物語』や『東山桜荘子』などの物語や芝居にこの逸話が作られ、義民として知れ渡った。また、処刑後、惣五郎の霊は祟りを起こし、堀田氏を改易させたという。人々は惣五郎の霊を鎮めるために、千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺「東勝寺」の宗吾霊堂(正式には鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂)に祀ったという。

 「一番はじめは」に取り上げられるならば、歌詞は「佐倉の惣五郎」ではなく、「成田の宗吾霊堂」にならないと、神社仏閣尽くしにならないのである。しかし、成田市では、歌詞では7番目となり、「七つ成田の不動様」とダブってしまう。

 そうまでして取り上げられた佐倉の惣五郎や惣五郎の霊を鎮めるために作られた宗吾霊堂とはどんなご利益があるのか?惣五郎は男子の大厄の年42歳に命を投げ出し、年貢の過酷な取立てに苦しむ10万人の大衆のため、直訴に踏み切った。農民達の身代りになって処刑された訳である。災厄を一身に背負った行為が讃えられ、宗吾霊堂は厄除祈願・国家泰平・万民豊楽のご利益があるという。

写真:佐倉惣五郎肖像
イラスト:「直訴状と米俵」ナマハゲさん

(皆月 斜 山口敏太郎事務所) 

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