静御前は源義経の恋人であり、白拍子と呼ばれる舞姫であった。彼女の舞の腕は非常に素晴らしい物であり、干ばつが続いた年に後鳥羽上皇の前で雨乞いの舞を披露した所、雨が降り出し褒美を賜った、との伝説も残されている。
源平の合戦が終わった後、源義経は兄の源頼朝に戦の際の独断専行などを咎められ、朝敵とされて奥州へ落ち延びることとなる。そのことを知った静は侍女と共に義経の後を追うのだが、この埼玉は栗橋の地で義経の討ち死にを知り、旅の疲れもあってか若くして病に倒れ、ここで無くなったとされる。
この地に残る伝説では、彼女に付いていた侍女が墓の代わりに世話になっていた寺に一本の杉の木を植えたのだそうだ。しかしこの杉も弘化3年(1846年)5月の利根川氾濫により枯れてしまい、それを偲んだ皆によって、今度は銀杏が植えられたという。つまり、厳密には『静御前の墓』とされる遺構は当時から存在しなかったとも言えるのだ。ちなみにこの場に建っている『静女之墳』は、享和3年5月(1803年)に中川飛騨守忠英が形に残るしるしとして建てた物と考えられている。
さて、この静御前も歌舞伎などの物語の題材になるなど、義経と共に昔から多くの人々に親しまれ、早すぎる死が悼まれた人物であった。そのためか、実は日本各地に彼女の墓とされる遺構が残っている。
しかし、それも致し方ないこと。今でこそ彼女のことを歴史の影に隠れたヒロインや、義経についても悲運の武将として書かれる事が多いが、当時の鎌倉幕府から見れば義経も静御前も朝敵であり、罪人でしかない。そのため、彼らのことを偲ぶ人がいてもしっかりとした遺構を遺すことが出来ず、結果として各地にこのような遺構が残る結果となったのでは、と考えられている。
なお、この栗橋では静御前にちなんだ祭りも毎年行われている(彼女の命日とされる9月15日に追善供養、10月第3土曜日に静御前まつり)。かつては杉の木が代わりとなって隠れるようにしてあった墓も、こうして現地の人々に囲まれている現在。彼女はようやく安息の地を得たと言えるのかも知れない。
(山口敏太郎事務所)