島野には日本一のマーク屋という評判があった。若手で追い込み選手として売り出すには、島野との闘いに勝つことが関門だった。昭和26年の大阪中央・日本選手権では高倉登(埼玉)の2着、同年の競輪祭でも山本清治(大阪)の2着とタイトルは獲れなかったが近畿地区と特別競輪では確実に番手の指定席があった。
昭和45年の一宮・日本選手権で高原永伍を追い込んで優勝した工藤元司郎(当時・東京)がマーク屋として売り出したのも島野を花月園で競り落としてからだった。この時、工藤が放ったヘッドパンチは何発だったろうか。だが、島野は一発もお返しをしなかった。
「島野の競りはきれいだった。あのころは最終2コーナーからの踏み出しが勝負だった。併走している時も膝を出してキックしたりはしない。まず荒っぽい競りはしないね。特に威圧感はないけど、いざ勝負の時になると、何時の間にか競り負けている。何回挑戦しても勝てなかった」
マーク型では当時うるさかった石村正利(山口)の話だ。
それに引き換え大井清は「元祖ヘッドパンチャー」といわれる強引な競りをした。すごい筋肉の持ち主で首も太かった。腕の太さといったら普通の男の倍はあった。このパワーでガンガン来られては、大抵の追い込み選手はビビッてしまう。競りだけでなく中割りの脚もあった。
最後まで勝負をあきらめないレースぶりにはファンの評価も高かった。昭和32年の大阪中央・オールスター決勝では西村公佑(大阪)の2着に入った実績もある。