「鉄人・衣笠」といえば、フルスイングと「連続試合出場」の記録で知られている。1987年6月13日、ルー・ゲーリックが持っていた連続試合出場の世界記録(当時)を更新し、2131試合出場とした。その記録は引退する87年まで継続された。その記録、2215試合連続出場は歴代日本1位で、世界でも2位となる大記録だ。
緒方孝市監督が広島の指揮官に就任した15年から優勝した16年に掛け、氏の書籍をまとめるお手伝いをさせていただいた。その打ち合わせや編集作業の合間だった。「連続試合出場」の思い出話も聞かせていただく機会にも恵まれた。
連続試合出場のピンチは、主に2つあったという。ひとつは怪我、そしてもうひとつは、不振によるものだ。
前者は「心」で乗り越えた。79年8月、巨人・西本聖投手からデッドボールを受け、左の肩甲骨を骨折。その翌日、ドクターストップを振り切って代打出場したエピソードは有名だが、氏はこんなことも話していた。
「だって、申し訳ない…」
死球を受け、球場から病院に直行した。その際、氏に帯同したチームトレーナーが「こんなことで(記録が)止まってしまうのか…」と、悔し涙を見せたそうだ。
氏が繰り返し教えてくれたのが、記録は自身のものではなく、大勢の仲間、球団スタッフ、ファンに支えられてできたものだということ。トレーナーは氏や広島選手がベストコンディションで試合に出られるよう、裏方で尽力してきた。「この人たちから受けたご恩に応えるためにも」の思いが、翌日の”強行出場”へとつながった。骨折してもフルスイングをしてみせた不屈の精神力はさすがだが、「裏方スタッフやファンのために」と捉えたのは、氏の人柄だろう。
また、同年は極度の打撃不振でスタメンから外される試合もいくつかあった。代打、代走、守備固めなどで途中出場できたが、不振が長引けば、それもかなわない。不振脱出について聞くと、「心技体」の言葉を用い、こう教えてくれた。
「スランプの原因は技術的な狂い、ズレ。だけど、ここを直してこうすればというふうに、単純にはいかないからね。スランプが長引くと、気持ちも滅入ってしまうし、怪我もそう。怪我で全力プレーができない自分の不甲斐なさを思うと、やはり気持ちが滅入ってしまう。最終的に『心』。気持ちが強くないと、乗り越えられない」
無理や体を酷使させる練習を押しつける精神論とは、全く違った。氏は哲学に触れるように野球とも向き合ってきた。
75年の初優勝、黄金期を築き上げていく当時の広島に関わったことができ、それは氏の誇りにもなっていた。広島市民球場、そこに集まったカープファンにも感謝していると言う。初優勝の思い出を訊ねたとき、「マツダスタジアムにも早く、歴史(=優勝)が刻まれるといいね」と語っていた。合掌。(スポーツライター・美山和也)