天沼熊野神社は、かつては「十二社権現」と呼ばれていた。明治維新後に熊野神社と改称され、天沼村の村社となった。祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)。
天沼熊野神社の創建は、社伝によると、奈良時代。武蔵国に派遣された東海道巡察使が、天沼と豊島の二駅を宿場と定め大和へ帰るさい、氏神を勧請したのがはじまりという。また、一説によると、1333年、幕府を攻撃するため鎌倉へ向かう新田義貞がこの地に陣を敷き、社殿を造営したとも伝えられている。
熊野神社の境内奥には、三つの末社、稲荷神社・須賀神社・三峯神社がある。それら社殿の脇に、直径2メートルにも及ぶという「心願成就の杉の根」がまつられている。これは、かつて、境内に立っていた杉の木の根っこの部分。
この杉は、新田義貞が戦勝を祈願して手植えしたといわれている。義貞が鎌倉幕府を滅亡させたことから、近隣の住民らは「心願成就の杉」「出世杉」と名づけ大切にした。しかし、枯れたため、1946年に切り倒された。その後、切り株だけが地面に残ったが、掘り出された。現在は、願いごとを祈念できるよう、まつられている。なお、日大二高脇の道路は、かつて、鎌倉街道と呼ばれていたそうだ。
「心願成就の杉の根」とともに、二つの大きな「力石」もまつられている。 「力石」は、明治のころまではひんぱんに行われていた神事のさいの道具。農村の若者たちは、一人前の青年として氏神に認めてもらうため、神社の境内で石を持ち上げ、力を競った。「力石」には、それぞれ、「三十メ」「四十メ」と刻まれている。「三十貫目」「四十貫目」という意味だが、実際の重さは、それよりも二割ほど差し引かれている。
天沼熊野神社周辺は、江戸時代に建てられた地蔵塔や観音供養塔など、民間信仰の石塔が多く残されている。また、付近にある善福寺川緑地は、桜の名所として知られている。(竹内みちまろ)