まずは『哲のカーテン』だ。世の東西冷戦時代の『鉄のカーテン』にひっかけ、川上さんの「哲治」という名前をとって『哲のカーテン』と呼ばれ、マスコミには散々の評判だった。取材する側からすれば当然の話だが、でも、当時の事情を考えれば、仕方なかったと思うよ。
新聞記者と選手は本当に近い関係だったからね。キャンプや遠征先宿舎の選手の部屋に、新聞記者は自由に出入りしていたんだよ。今のプライバシー尊重の時代からは考えられないだろう? 取材する側とされる側の選手の距離が信じられないほど近かった。それなりのケジメをつけるために、巨人が広報担当システムというものを導入したんだ。が、これは、川上さんの考えたものではない。巨人に協力的かどうかで、新聞社にABCDなどのランクがあったとかいろいろ言われているが、これは球団広報の仕事だった。
入団して二軍にいたオレなんかにも、新聞社系の雑誌と出版社系の雑誌に対する区別、誘導尋問的な質問に関する対応のとか、広報からいろいろなレクチャーがあったよ。川上さんの本当の哲のカーテンは、牧野さんと2人で導入しようとしていたドジャース戦法に関するミーティングや、公にしたくない秘密練習などのためだった。
球団の広報の仕事としてのマスコミ対策と、現場の監督である川上さんの秘密保持が一緒くたにされ、哲のカーテンと呼ばれ、混同されているところがあるよね。サッカーなんか秘密練習が当たり前になっている。あの当時、川上さんがやった時は珍しかったから、大騒ぎされたんだろうと思うよ。
まあ、今の巨人と違って、人気絶大だっただけに、スポーツ紙は連日1面、マスコミの扱いは大変だったからね。マスコミに踊らされないように、選手を守るためには、広報を通すというやり方はある程度必要だったと思うよ。選手が何気なく言ったことが首脳陣批判という形で書かれ、大騒動になったりするからね。
実は、哲のカーテンの陰では、当時としては斬新ないろいろなことも行われていたよ。読売のベテラン記者が講師となって「現在はボール4つで四球だが、その昔は違った」などという、野球に関する歴史的な勉強。大学の先生による栄養学的なもの。国立競技場でのウエートトレーニングもあったね。
マスコミ的には、巨人軍の秘密主義の象徴として大バッシングされた哲のカーテンだが、負の遺産だけでは片づけられない。プライバシー尊重で何でも秘密扱いにされがちな現在を考えてみれば、時代の先取りとも言えるよね。
<関本四十四氏の略歴>
1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。