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改元は菅原道真の怨霊を止めるため 平安時代に起きた改元騒動

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 4月1日、平成に代わる新しい元号「令和」が発表された。

 現在の元号は天皇陛下の在位期間を基準とするもので、生前退位に伴って施行されるものだ。

 だが歴史をさかのぼると、元号は吉事や凶事があった際に変更することもたびたびあった。吉事の場合はそれを記念して改元されていたが、凶事の際は、これ以上凶事が続いていかないよう願って新元号に代えられていた。

 代表的な事例は平安時代、菅原道真の祟り騒動に関するものだ。

 優れた政治家であり、右大臣の地位にあった菅原道真は左大臣の藤原時平により「謀反を起こした」という虚偽の訴えを受け、遠く九州の太宰府に左遷され、現地で没することとなる。彼の死後、天変地異が続き宮中にも不幸が重なったこともあり、菅原道真の怨霊を鎮めようと改元されたことがあるのだ。

 最初に道真の祟りに遭ったとされるのは、道真が謀反を企てたとして後醍醐天皇に進言した、定国であった。定国は道真の左遷以降、昇進を重ねていたが、906年に40歳で急死する。その2年後には、進言したもうひとりの人物で、定国同様に出世を続けていた藤原菅根が54歳で急死した。死因は落雷だったと言われており、2人の死は道真の祟りではないかという噂が立つようになった。

 藤原家に動揺が広がる中、首謀者だと目される時平が、菅根が死亡したのと同じ年に39歳の若さで死去。藤原家に死者が相次ぎ、慌てたのは醍醐天皇であった。道真を慰霊し怒りを鎮めようと、道真の墓に神社を建てることを決め、造営を開始。道真が謀反を起こしたと記述された書物を全て焼くよう指示し凶事が終わることを願い、元号もそれまでの「延喜」から「延長」にした。

 しかし道真の怨霊は静まらなかったのか、923(延長元)年、醍醐天皇の皇太子にあたる保明親王が21歳で死去。さらに2年後には、保明親王と時平の娘の間に生まれた慶頼王がわずか5歳で病死した。

 これを受けて醍醐天皇は道真左遷の詔(みことのり)を取り消し、右大臣に復位させたが、930年6月26日に醍醐天皇の御所、清涼殿に落雷が起き、道真の左遷に加担した5名が死亡。醍醐天皇もこの後に体調を崩し、3ヶ月後に譲位して崩御する。当時は、干ばつの他に疫病なども蔓延しており、人々はそれらも道真によるものだと信じていたという。

 偶然が重なっただけかもしれないが、40年も続いた凶事はそれだけ人々の心に強烈な印象を残したのだろう。この話は長く語り伝えられ、現在も菅原道真は日本三大怨霊の一人、かつ学問の神様として信仰を集めている。

(山口敏太郎)

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