長谷寺の開創は奈良時代という。本尊の十一面観音立像は、9メートル超。長谷大観音として知られるこの観音像は、伝承によると、一本のクスノキから刻出された2体のうちの一つ。もう一体は奈良県の長谷寺にあり、鎌倉市の観音像は、衆生済度の願いが込められ海中に投じられた。それが三浦半島(横須賀市・三浦市)に流れ着き、長谷寺に遷座されたといわれている。観音様の慈悲心を象徴する長谷寺の「みがわり鈴」は、衆生の身に起こる厄災を引き受けてくれ、手づくりで、一つ、一つ、音色が違う。また、長谷寺では、般若心経ろうそくなども授与している。
長谷寺を訪れた時、観音堂へ続く階段上のイチョウが剪定(せんてい)作業中だった。職人たちがイチョウに登り、切り落とされた枝はロープに結ばれ降ろされている。一息ついたところで、作業指揮を執っていた監督に尋ねた。イチョウの推定樹齢は300年から400年。文献には残っていないが、絵に描かれているので300年以上はまちがいないという。また、監督は「もっと古い木はあれ」と池のほとりにある槇(まき)の木を指さした。「成長が遅い槇であれだけ太いと、おそらく500年から600年」。イチョウや槇のほかにも、長谷寺には、山門前に「門かぶりの松」と呼ばれる松の木が立っている。松の木の近くには、椨(たぶ)の木もある。
観音堂と隣接した長谷寺宝物館では、「三十三応現身(おうげんしん)立像」を見ることができる。これは、観音様の変化した姿。目を見開いて口をゆがませる身像、すんだ瞳で遠くを見つめる身像、薄目を開けほほ笑む身像など、表情がさまざま。間近で見ると、とても室町時代に造られた像とは思えない。身像それぞれに名前はあるが、確定が難しいものもあるため、長谷寺では提示は控えている。長谷寺の山内の諸堂は大正12年の関東大震災でことごとく被害を被った。宝物館には、震災前のわらぶき屋根の観音堂の写真が展示されている。また、相模の戦国大名である北条氏康から長谷寺に出された印判状も残されている。北条氏では、2代氏綱より「虎の印判」が使われ、以降、北条氏の家印となった。
宝物館を出ると、「眺望散策路」入り口があった。この辺りは、梅雨のころにはアジサイが咲き乱れる。散策路の山道からは、鎌倉をはじめ、観音像が流れ着いたという三浦半島を眺めることができる。(竹内みちまろ)