報道をまとめると、24日夜、りえが所属事務所「エム・ツー企画」を通じ、直筆署名入りのファクスで報告。りえはファクスに「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」と最愛の母への思いをつづったというが、光子さんは肝腫瘍の診断を受け、亡くなる前まで自宅療養中。すでに通夜、葬儀は密葬にて近親者のみで執り行ったという。
光子さんは女手ひとつでりえを育て上げ、りえが11歳で芸能界デビューする、光子さんは公私ともに“プロデュース”。結果、りえは息の長い売れっ子女優に成長した。
「10代の時に話題を集めた『ふんどしカレンダー』、そして、人気絶頂だった91年に出版し衝撃を呼んだヘアヌード写真集『サンタフェ』などはりえに有無を言わさず光子さんのジャッジで決まった。92年には当時関脇だった貴花田(現貴乃花親方)と婚約して世間を驚かせたものの、93年1月に婚約解消し、またまた世間を驚かせたが、その騒動の裏で糸を引いていたのは光子さん。りえは09年にデキ婚して一児をもうけたものの、現在は夫と離婚協議中だが、離婚をすすめたのも光子さんだったと言われている」(女性誌記者)
りえは6日に公演初日を迎えた、東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで上演中の舞台「火のようにさみしい姉がいて」に出演中。早朝から同所には報道陣が集まっているというが、ショックが大き過ぎるはずのりえが報道陣の取材に応じるかどうかが注目される。