「私が生まれてしばらくして、母は青森から上京して武蔵村山市でお店を始めたんです。最初は昼間のカラオケ喫茶だったんですけど、やがて夜のスナックも始めました。私はそこで、お客さんや母が歌うカラオケや、有線放送を聴きながら自然に歌を覚えていきましたね。特にテレサ・テンさんが大好きだったみたいで、『愛人』や『つぐない』を意味も分からずに歌っているのを録音したテープが残っています(笑)。小学生の頃は、演歌以外にも松田聖子さんや小泉今日子さんといったアイドルの歌を歌っていました。ジャンルにとらわれず、いろんな歌が好きでしたね」
なぜ演歌の道を志したのだろうか?
「母の店には、たくさんの演歌歌手の方がキャンペーンで訪れていたんです。子供心に『このキレイなお姉さんたち、素敵だな』と思って、憧れの存在でした」
小学6年生の時、転機が訪れる。現在所属するレコード会社・日本クラウンの歌手がキャンペーンで来店。一緒に来ていた制作ディレクターの前で、歌を披露する機会を得たのだ。
「その時は中山美穂さんの曲を歌いました。すると『君の声は坂本冬美さんのように艶のあるいい声だから、演歌を勉強してごらん』と言ってくださったんですね。私はそれが『君は演歌歌手になるべきだ』というお告げのように聞こえて、舞い上がってしまって(笑)。中学に入ると、こぶしの回し方の参考になればと、母の勧めで民謡を習い始めたり、本格的に演歌でカラオケ大会に出始めるようになりました。高校1年の時に『ルックルックこんにちは 女ののど自慢』でA賞をいただいて、次の年には千葉テレビの『カラオケトライアル』という番組で10週勝ち抜きを達成して、だんだんと自信を付けていきました」
山口百恵や森昌子を育てた作曲家・新井利昌氏に師事し、5年間のレッスンを経て、2007年に念願のデビューを果たす。しかしその半年前、悲しい出来事に直面していた。
「デビューに向けて準備が進んでいた頃、父が病気で亡くなったんです。母の再婚相手で血はつながってないんですけど、本当の親子みたいに仲がよくて、私が歌手になるのをずっと後押ししてくれていました。体調を崩してからは、レッスンの傍ら、私が車で病院に送り迎えしていましたね。歌手になった姿を誰よりも見せてあげたかったのに…。不思議なことに、父は亡くなる直前、私と一緒に犬を買いに行ったんです。まるで自分の身代わりに、犬を残していったみたいで。それが今も飼っているチワワのくぅーちゃん。大切な家族です」
彼女が舞台に立つと、会場からは「ゆき美ちゃーん!」と、アイドル親衛隊のような熱い声援が飛ぶ。
「演歌は、お客さまと近くで触れ合って地道に手売りできるのが強みだと思います。店頭歌唱キャンペーンでは、CD即売会でサインを書いて握手したり、2ショット撮影したり。一緒に写真を撮る時、肩や腰に手を回して、必要以上にさわってくる困ったお客さんも時々いますね。でも私、小学生の頃から母のお店で大人の男の人とデュエットして、そういうことに慣れているので『別にいいか』と思っちゃうんです(笑)。ドレスは可愛い感じで、色も白とかピンクのものを好んで着ています。『艶歌の妖精』というキャッチフレーズをつけていただいた以上、妖精でなくちゃいけないので(笑)」
多くの場合、演歌歌手が新曲を発売するのは、およそ1年に1枚だという。なぜもっと早いペースで出さないのだろうか?
「テレビやラジオで演歌が流れる番組は限られていますし、主なお客さまは年配の方で、インターネットを使わない人も多い。なかなか皆さんの耳に届かないんです。発売して半年以上たってから、やっと新曲が出ているのを知ってもらえることも…。だから、多くの皆さんに浸透させるには、1年間かけて歌っていくのがいちばんいい形なのかなと思います。“どうやったらもっと幅広い世代の人に演歌の魅力を伝えていけるんだろう?”とは常に考えていますね。若手の演歌歌手が集まって、演歌を知らない若い人たちの前で歌えるようなイベントが、実現できたらいいですね」
昨年11月に発売した新曲『海鳥哀歌』は、自身にとって3作目となるオリコン演歌・歌謡ランキング初登場1位に。実力と人気を備えた若手女性歌手の1人として期待がかかる。
「7月からはデビュー10年目という節目に入ります。いい形で10周年を迎えられるよう、大ヒットを目指して歌っていきたい。テレサ・テンさんのように、亡くなっても大勢の人が歌い継いでくれるような、名曲を残せる歌手になるのが目標ですね」
はなさきゆきみ=1981年9月8日青森県野辺地町生まれ、東京都武蔵村山市育ち。2007年7月、『哀愁本線』でデビュー。同年12月、第40回日本有線大賞新人賞受賞。オリコン演歌・歌謡曲部門で常に新曲を上位にランクインさせており、『冬の蛍』『風泣き岬』『海鳥哀歌」では初登場1位を獲得。