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競輪人国記 大阪(2)

 競輪創成期の大阪にはしぶとい選手が目白押しだった。山本清治ほど派手な成績はあげていないが後藤欣一、西田勇、柴田博司、紫垣正春、尾池義翁などが近畿王国を謳歌していた。

 ことに後藤は実用車が強く、昭和24年6月の住之江・日本選手権では19歳で優勝、同年10月の川崎でも実用車で連覇している。実用車はいわゆる普通の自転車で競輪場が改修されてカントが付くようになってから、実用車はきついカントを回りきれないために、競技は廃止されたが、昭和30年の大阪中央まで続いた。

 後藤のあとには河内正一(兵庫)という怪物が現れ日本選手権実用車で7連覇という快記録を打ち立てている。西田、柴田はマーク強引の選手で他の地区の選手を寄せ付けなかった。

 尾池義翁は岸和田の尾池グループの主軸で昭和27年8月の福岡・全国都道府県選抜の2000メートル、翌年の花月園では1200メートルを制した。この時には尾池だけでなく、2800メートルでは高橋恒、メインの4000メートルは山本清治と4種目の決勝のうち3種目を大阪勢が制して地区賞金を獲得している。今、びわこなどで解説をしている尾池孝介も一族で、孝介自身も先行で活躍した。

 近畿作戦の機関車役を務めたのは西村公祐だった。とにかく近畿ラインはトップ引きも一緒になって展開を左右するのだから、他の地区の選手がどう動いても先手は近畿勢、特に大阪に取られてしまう。気のいい西村はいつも近畿ラインの前で闘い、番手まくりを食っても平然としていた。パワーを発揮した昭和32年の大阪中央・オールスターでは優勝している。

 この西村と大の仲よしが竹野暢勇(栃木)で、竹野が優勝した昭和42年の岸和田オールスターでは、西村が喜んで涙を流したという話も伝えられている。西村の弟・欣也はマーク一本だが地脚のある競りで特別競輪でも活躍した。

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