「記録達成が間近となった8月半ばから、その話題を振っても全然ノッてきませんでした。自分のことよりもチーム優先の人なのは分かっていましたが」(在阪記者)
チーム関係者によれば、広島戦(9月7日)の最終打席で「1999本」となり、いっそう無口になったという。対照的に、球団は記念グッズの販売も早くから企画していた。生え抜き選手で2000本に到達したのは2人目、伝統球団としてはちょっと意外だが、「チーム功労者に相応しい祝福を」と思ったのだろう。しかし、こんな声も聞かれた。
「鳥谷に限らず、プロ野球選手は常にケガとの戦いです。故障を抱えながら出場する選手がいるとき、その度合いについては、首脳陣か球団スタッフが匿名でコッソリ教えてくれます」(前出・同)
それは、プロ野球報道の慣例でもある。しかし、鳥谷の場合、ケガの状況がマスコミに漏れるのを物凄く嫌うのだ。当たり前の話だが、故障を抱えていれば、ベストパフォーマンスはできていない。成績も落ちる。鳥谷は「ケガを言い訳にしている」と見られるのがイヤなのだ。
「球団スタッフも鳥谷に関する質問が出ると警戒して、過剰な避け方をするときもあります」(ベテラン記者)
鳥谷は「7番・遊撃」でプロ野球人生をスタートさせた。ルーキーイヤーだった04年のことである。正遊撃手となったのは、05年。チームも優勝しているが、以後、チームはそこから遠ざかっている。プロ14年目で優勝経験1回はたしかに少ない。
「優勝した05年は、チームを牽引していた選手は、現在の指揮官、金本(知憲)監督です。当時、チーム全員が『将来は鳥谷がその立場を引き継ぐ』と見ていましたし、本人もその自覚を持ってやってきました。その期待に応えたのは立派だが、鳥谷は優勝に届かないことを『自分の力不足』と捉え、その考えが個人記録よりもチームの優勝となっていきました」
関西方面で活動するプロ野球解説者がそう言う。
また、ドラフトの星だった03年に逆上るが、当時の早稲田大学指導者たちは「プロで必ず成功する」と言い切っていた。他に指名された同期生は青木宣親(ヤクルト)、比嘉寿光(広島)、由田慎太郎(オリックス)。鳥谷だけ成功すると言い切った理由だが、当時の指導者はこんな思い出話をしてくれた。
「入学して少し経ったころ、新入生だけ連れて焼き肉屋に行ったんです。みんな肉を頬張っていたのに、鳥谷は野菜ばかり食べていた。『肉は好きだが、栄養のバランスが』と言ったんです。10代でちゃんと自己管理ができていた。彼が大学で大成すると思ったのもそのときでした」
“クールガイ”の素養も当時から持っていたわけだが、自身がチームの牽引役を引き継いで以降、優勝から遠ざかった現状がストイックさに拍車をかけたようだ。喜怒哀楽をほとんど表に出さないスタイルが批判の的になったときもあったが、信念は曲げなかった。
「打撃成績が大きく落ち込んだ昨季、鳥谷は引退も考えていたようですね」(前出・プロ野球解説者)
同解説者が雰囲気として察したものだが、その読みはマンザラでもなさそう。今でこそだが、昨年の球団納会の席で、鳥谷は慣れ親しんだショートのポジションで勝負をしたいと金本監督に申し出た。その決意もそうだが、「試合に出られるところ(ポジション)を獲りに行くだけ」とし、オープン戦途中での三塁転向も受け入れた。『連続試合出場』の記録(1767試合)が史上単独2位となった4月19日は、自らの失策で試合を落としてしまった。各メディアは「記録達成のことだけでも」とコメントを求めたが、“拒絶”している。
試合後、金本監督は「2500本を必ず打て」と祝福の言葉を送った旨を明かした。それを間接的に聞かされた鳥谷は「これ以上、数字を追うと辞めたくなりそう」と苦笑いしていたが、表情はやはり硬かった。口元をちょっと緩めただけだ。優勝への思い。そのストイックな背中を見て、若手が奮起してくれればいいのだが…。