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芸能活動間もなく20年 『元気配達人』パンチ佐藤の生きざま

 プロ野球界から芸能界に転身、今年で19年を迎えたパンチ佐藤が、節目である20年のメモリアルイヤー前に、充実している今を激白。2時間に亘り“熱い思い”を語った。

 武相高校→亜細亜大学→熊谷組…と野球エリートをばく進してきたパンチ。社会人ベストナインにも選ばれオリックスのドラフト1位に指名されたのは1989年の時。当時は俊足で堅守、巧打者という評価が高く即戦力として期待された。

 が、パンチはそんな周囲の評価に「?」。チームに合流した瞬間に危機感を抱いたのだ。

 「守備、走塁…これは通用しない。自分はプロレベルでないと実感しました。それならばバッティングしかない。左の代打・一番手になることを考えました」

 90年、入団1年目からレギュラーではないものの試合に出場。キャリアハイとなる打率.331を残した。が、その後は本人が目指していた「左の代打・一番手」に定着出来ず一軍と二軍を往来。オリックスを指揮していた土井正三監督との折り合いも悪く不本意なプロ野球生活を余儀なくされたのだ。

 94年、近鉄から仰木彬監督が移籍。仰木監督は同じく“冷遇”されていた鈴木一朗と共に登録名を「パンチ」「イチロー」とし、新生オリックスの目玉として売り出した。

 イチローの活躍はご存じの通りで実はパンチ自身も本人の目指す「左の代打・一番手」に定着。仰木監督の狙いは当たった様に思われた。

 ところが−−。

 「シーズン終了時に仰木監督から“お前は奥さんもいるし、子供もいる。もっと稼がなくちゃダメだ。左の代打・一番手ではあるがそれでは飯を食わせられない。儲かる仕事をしろ。芸能界に道を作ったから”と言われたのです。そればかりか、既に大阪にある某芸能プロに話をつけていてくれていたのです。僕が面接に行ったら即所属になれるように、です。嬉しかったですが、僕はプロ野球を辞めたら生まれ育った神奈川・川崎に戻ろうと思っていたので残念ですが、その事務所には丁重にお断りを入れました」

 あっさりプロ野球人生に終幕。芸能界に第二の人生を賭けたのだが、当時は今と違いバラエティタレントなど存在しない時代だ。

 野球しか知らない男だけに、芝居が出来る訳でも、歌が歌える訳でもない…。早速、「芸能界」という壁に直面、「エラいところに来てしまったなあ」と早々に後悔をしたという。

 そんな中、街を歩いていた時、見知らぬ中年の女性からこう声を掛けられた。

 「あなた、パンチ佐藤さんでしょ。あなたを見ていると元気になる。元気を貰えるわ」

 この言葉にパンチは覚醒。芸能界での立ち位置を決めたという。

 「僕にしか出来ないもの…それはどの仕事も一生懸命、元気よくこなすこと。『元気配達人』…これをキャッチフレーズに、“僕を見てくれている人には元気を与えたい”そう考えるようになりました」

 パンチは「テレビに出るだけが仕事ではない。僕を必要としてくれる人が全国各地にいるのなら、そこで元気をプレゼントするのが僕の仕事」だと思う−−。

 結果、芸能生活19年にして「グルメレポーター」「旅番組ナビゲーター」としてある程度の地位を確立。ただ、前述の通り、テレビに拘ってはいない。依頼された仕事を精一杯、真面目にこなすのがパンチ流なのだ。

 「先日、『遠州対信州の国取り綱引き大会』というイベントに参加させて頂きました。長野対静岡の県境を巡る戦いなのですが、毎年、敗けた方が10センチ領土を差し出す、というイベント。“勝った方が杭を10センチずらして打つ”という儀式がありますが、これはシャレ。しかし、選手は本気なのです」

 実はパンチ、このイベントに関し一年前から取材を開始。長野軍と静岡軍の練習風景を時間が許す限り見てきたのだ。

 「特に印象深かったのが長野です。毎週月、水、金の夜、大の男達がショベルカー相手に綱を引くのです。あれを見ちゃうと特別な思いを抱いてしまう。当日、長野は強かった。2分2本勝負なのですが、どちらも戦術は徹底しておりました。最初の1分半まではじっと耐える。動かないのです。素晴らしいのは選手の姿勢。全員が45度、同じようにピチッと倒れる。勿論、足元は踏ん張っているので地面にめり込んでいるのです。そしてラスト30秒…選手は一斉に呼応してさらに傾斜し一気に綱を引く…圧勝でした」

 この光景にパンチは涙をボロボロ流したという。尚、このイベントにはお笑い芸人もゲストして参加していたが、彼らにはパンチが流した涙の意図は最後まで理解出来ないままだった事だろう。

 さらにパンチは今、東北へ特別な思いを抱いている。盛岡沿岸地方でのイベントが重なり、それが元で現地のテレビ番組でコーナーを担当することになったのだ。勿論、テーマは『〜を元気にする』というもの。尚、『〜』は(岩手)沿岸など、テーマ毎に変化する。

 「僕なりに震災復興支援したいと思い、イベントに出演しています。ギャラは意識しておりません。そうしたら神様が見てくれた。岩手県人の99.9%が観ているというテレビ岩手『5きげんテレビ』でコーナーを持たせてもらった。そもそも岩手のイベントで骨を折っていただいた『岩手県北バス』東京営業所長・八重樫眞さんのおかげです。彼と一緒に番組に出演しております」

 今や、同番組に無くては成らないコーナーに成長。パンチ八重樫コンビの絶妙な掛け合いが視聴者の心を和ませ、元気を与えているようだ。

 「今年3月、独立し、個人事務所になりました。僕としては今もそして、これからも、同じスタイル『元気配達人』を踏襲していこうと思います。“コツコツと地道に”がパンチスタイル。来年は20年を迎えますが、スタイルを変えず今のまま進んでいきたいと思っております」

 現役時代を知らない向きも多いと思うが盟友・イチローはパンチを実兄の様に慕っていた。パンチが引退したときはお互いがユニフォームを交換したほどの仲なのだ。

 芸能界に入って間もなく20年。それでも色褪せないのはパンチの人柄と仕事に対する「プロ意識」−−これに尽きる。

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