壁画は大久保壁画制作委員会の手によるもの。同会によると、このあたりは新宿区の花である「つつじ」と鉄砲隊に深い由縁があるという。
ときは天正18(1590)年にさかのぼる。種子島の鉄砲伝来から50年になろうかというころ、徳川家康が西方の警備のため伊賀組などの鉄砲同心を駐屯させたのが物語の始まりだ。
関が原の戦い後、現在の百人町に同心100人を配属された鉄砲組は「百人組」と呼ばれ、江戸城の警備のほか、将軍が日光東照宮などに参詣するときに警護にあたった。
この百人組、一説にはゴルゴ13並みに腕が立ったともいわれるが、休日になると花を愛でる心やさしい猛者連中だった。余暇を利用して屋敷内でつつじの栽培に没頭すると、その美しさはやがて江戸じゅうで評判となった。ガーデニングの達人だったわけだ。
明治維新後につつじ栽培は一時衰退するものの、明治16年に「大久保つつじ園」が開園して再び再燃。1万株が咲き誇る同園は大勢の花見客でにぎわった。その後、日比谷公園に移されたつつじは、戦後になって三たび復活。昭和47年にはついに新宿区の花に指定されるまでになったという。
壁画で、武将と不釣り合いな美しいつつじが描かれているのにはそんな理由があった。