番組開始当初の80年代前半、タモリを生番組に出演させるのはバクチだった。今でいう、江頭2:50を毎日地上波に出演させるに等しかったからだ。ところが、大人気漫才師・B&Bが司会を務めた『笑ってる場合ですよ!』の後釜としてスタートした“タモリの番組”は、徐々に浸透。開始6年後(88年)には、最高視聴率27.9%(関東地区)を記録するおばけ番組に成長。同時間帯の民放番組で、翌89年から24年連続でトップを走った。
“いいとも!”いちばんの魅力は、生放送がゆえに起こった、数々のハプニングだろう。特に、番組の顔といえる『テレフォンショッキング』のコーナーは、宝の山だった。
たとえば、矢田亜希子の場合。友だち紹介の際、「友だちではないんですけど」と前置きし、つないだ大竹しのぶに、「はじめまして」と言ってしまった。それまでに、『テレフォンショッキング』に友だちは出ないという暗黙の了解は、業界内に存在した。それを矢田が認めたことによって、以降、「友だち」を「ゲスト」と呼ぶようになった。
しかしじつは、それ以前にも多くのゲストが「はじめまして」をニオわせていた。早見優、木村拓哉(SMAP)、山田まりや、西郷輝彦などは、ほぼ確信犯的にネタバレに加担していた。田中美奈子を紹介したプロレスラーの蝶野正洋は、「ディレクターに『次はこの人を紹介してください』って言われた」と、後日トークイベントでポロリともらしている。岡村隆史(ナインティナイン)は、レギュラー番組だったニッポン放送『オールナイトニッポン』のラジオ内で、「『紹介できそうな芸能人をリストアップしてくれ』ってディレクターから頼まれて、紹介できたのは、そのうちのひとり」と明かしている。
同コーナーの醍醐味は、あくまでも突然、友だちがいる場所に電話をつなげて(なぜか、つながる)、あくまでも突然、明日の出演を交渉する点にあった。しかし、鈴木杏樹は、「おとといから緊張してました」と興奮し、新山千春から紹介された島谷ひとみは、うれしさのあまり「電話、待ってた」と口にした。平野綾にいたっては、Twitterで「打ち合わせが終わった」とあげてしまい、別日に入念な打ち合わせがあることをバラしている。
なかには、そんな事前打ち合わせを無視する大物もいた。大物演歌歌手の千昌夫、大物ミュージシャンの大滝詠一が、そうだ。打ち合わせでは、出演を快諾。ところが、本番当日の電話口で出演を拒否して、スタッフを慌てさせた。大物芸人の志村けんも、またしかり。友人の桑野信義から紹介を受けたが、「あす、ゴルフなんだよね」と最初は笑わせ、とうとう最後まで主張を曲げなかった。
番組開始当初の80年代前半といえば、携帯電話もポケットベルもなかった。ゆえに、固定電話による芸能人の数珠つなぎは、ガチだったと思われる。84年には、タモリが電話番号を誤ってしまい、まったくの素人宅につながった。おもしろがって、そのまま4日間、一般素人をゲストに招いた。ここに、“深夜対応”だったタモリの遊び心が、見え隠れする。
そんな一般人を番組観覧客として、毎週月曜日から金曜日まで、東京・新宿スタジオアルタにおよそ100人招いて、1時間近くにわたって生放送を届けていた。毎日となると、アクシデントを引き起こすのがステージに立っている人間だけとは限らなくなる。84年に八神純子が出演した際、トーク中に右翼団体の男性がスタジオに乱入。火のついていない発煙筒を投げこんだことがある。犯人は即取り押さえられ、現行犯逮捕された。
観覧席に座っていた男性が、肉声で参加してしまう事件もあった。山崎邦正(現:月亭邦正)がタモリに、「質問あったら、なんでも答えますんで、言ってください」とオーダーをすると、男性が、「タモさん、“いいとも!”が年内に終了するって、ほんとなんですかね?」と割って入った。CM明け、男性が座っていた席には、小さな白いぬいぐるみが着席しており、以降、バラエティ番組では、アブないやつの席にぬいぐるみが置かれることが定番となった。この一面を切り取っても、“いいとも!”イズムはしっかりと、今のテレビ業界に継承されているということか…。
(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)