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薩摩藩士・小松帯刀と赤神山の狐

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画像はイメージです。

 幕末の頃。薩摩藩家老・小松帯刀(1835〜1870)は、江戸藩邸において、朝廷の公卿と幕府閣僚との交渉を担う職に就いていた。後に京都で朝莫諸藩の間を行き来するうち、倒幕運動や大政奉還に尽力するようになった。そのため、京都では幕吏の追っ手に追われるようになってしまった。身の危険を感じた帯刀は、京都から逃れ滋賀県東近江市中野町東沖野ヶ原辺りに粗末な庵を結び、隠遁生活をするようになった。

 ある時、帯刀は赤神山(東近江市小脇町)の中腹にある阿賀神社に参拝に出掛けた。その帰り道のこと。日も暮れ、月の明かりを頼りに帰り道をブラリブラリと東沖野ヶ原の隠れ家に向って歩いていた所、野原の草むらに罠にかかった狐がもがいているのを発見した。東沖野ヶ原には人を騙す悪い狐が棲んでいるという噂があったので、村人が狐の罠を仕掛けていたのだ。しかし帯刀は哀れに思って、罠を解いて狐を逃がしてやった。

 数日後、帯刀の隠れ家に若い娘が訪れた。娘は旅の途中で道に迷い、日も暮れてしまったので、一夜の宿を貸して欲しいと頼み込んだ。帯刀の隠れ家は手狭で寝る場所もなく、しかも男所帯だったので断った。しかし娘は土間の片隅でも良いから泊めて欲しいと、泣きそうになって頼み込んでくる。さすがの帯刀も気の毒に思い、娘を泊めることにした。しかしこの家には煎餅布団が一組しかないので、帯刀は娘に布団を譲り、自分は軒下で眠ることにした。翌日、帯刀が目覚めると娘の姿は無く、布団の上に阿賀神社の護符が置いてあった。娘は帯刀が罠から助けた赤神山の化け狐だった。

 その後、帯刀は京都で勤皇の志士として活動するようになっても、阿賀神社の護符を片時も肌身離さず懐に忍ばせておくようになった。しかしある時、帯刀は木屋町で幕吏の捕り方に捕縛され、軍鶏駕篭で江戸送りの身になってしまう。その護送中、三条大橋のたもとに差し掛かった時。不思議なことに駕篭の扉が開き、阿賀神社のご加護のお陰か、彼は無事に脱出することが出来たという。

 明治時代になって、帯刀は江戸送りから無事に脱出できたのは阿賀神社の護符のご加護かもしれないと考え、その恩返しとして、阿賀神社に小松家の家宝である狩野深幽筆の「三十歌仙」を額に設え奉納したという。

(写真:「阿賀神社」滋賀県東近江市小脇町2247)

(皆月 斜 山口敏太郎事務所)

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