本機の名称も澄み切った名刀であり、同時に最強武器としての秋水から採られている。命名のきっかけとなったのは、軍や開発関係者が参加した懇親会の席上で披露された短歌に「秋水三尺露を払う」とあり、感銘を受けた一同が「秋水」と名づけたとされる。ただし、先の歌は下の句のみで上の句はわからず、しかも字足らずというところが、いかにも酒の席という雰囲気を伝えている(別に「秋水一閃驕敵を撃つ」との歌も伝わっており、こちらだと字数は合うものの、やはり上の句は不明)。また、機体そのものの性格や開発経緯にも、そういったやや中二病的なイメージがつきまとい、やがて悲劇的な結末を迎えることとなる。
まず1944年(昭和19)にドイツ駐在武官だった巖谷英一中佐が、ドイツのロケットエンジンに関する資料と共に潜水艦で帰国、技術情報がもたらされた。その少し前に、陸海軍は高高度を飛行する米新型爆撃機の情報を入手していたが、当時の日本には迎撃可能な戦闘機が存在しておらず、速やかに強力な高高度迎撃機を開発する必要があった。しかし、当時の日本には高高度飛行に不可欠である実用的なターボ過給器エンジンが存在していないなど、開発には大きな困難が予想された。そのため、これまでの常識にとらわれない、革新的な迎撃機を開発せねばならないとも考えられていた。
そこで、ドイツからもたらされたロケット機をコピー生産することとなり、これが後に秋水と名付けられたのである。しかし、図面などの詳細な資料は日本へ到着する前に失われたため、外形図やロケットエンジンの取扱説明書などから、手探り状態で開発することとなった。機体の新鋭機とあって、三菱が中心となりつつ陸海軍に理研なども協力する、挙国一致とも言える体制を敷いて開発にあたった結果、翌45年には試験飛行にこぎつけるという進捗ぶりだった。
しかし、国産ロケット機の記念すべき初飛行は、不可解かつ不合理な要因で悲劇に見舞われることとなる。飛行試験を行う海軍三一二航空隊の柴田武雄司令は、神のお告げにしたがって試験飛行を狭い追浜で行うこととし、技術者の反対を押し切って機体を軽量化、燃料まで最小限とした。それでも45年7月7日の初飛行では離陸に成功、上昇を開始した段階で関係者は成功を確信した。しかし、上昇中にエンジンが停止、再起動できないまま不時着に失敗、機体は全損してテストパイロットも殉職という、最悪の結末を迎えた。
事故の原因は燃料を最小限にしたことと、燃料タンクの構造にあった。エンジンへ燃料を送る管を前方に取り付けていたため、満載しないと上昇中に燃料が偏ってしまい、エンジンへ送り出せなくなる。そしてエンジンが停止、墜落したのであった。燃料タンクの構造は元型のMe163Bと同じで、ドイツにおいても同様の問題が発生していたという。とはいえ、神のお告げで燃料を減らさず、技術者が主張した通りに満タンで試験していれば、この事故は発生しなかった。そのため、お告げがなければ無事に試験飛行を終えた可能性が高い。
その後、関係者は別の機体を準備していたが、エンジンが完成せずに敗戦を迎える。日本唯一のロケット推進戦闘機は、ドイツの模倣と呼んでも差し支えない機体だったが、占領軍には極めて強い印象を与え、米本土で詳細な調査を受けた。機体は保存され、現在は米加州のプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に展示されている。
とはいえ、やはり本機は単なるドイツ機の模倣に過ぎず、もし量産されたとしてもドイツと同じ問題に直面したのは間違いない。迎撃可能空域は発信基地付近に限られ、たとえ敵編隊に遭遇出来ても、文字通り一撃を加えるのがやっとで、迂回されれば手も足も出ないのだ。しかも、レーダー警戒網が整備されていたドイツとは異なり、日本では敵編隊の早期発見、監視すらままならなかったのだから、遭遇出来たかどうかすら怪しいのだ。そして、そのことは運用部隊でも十分に認識されていたようで、試験段階から体当たりあるいは自爆攻撃を目的としていたとの証言もある。
酒席のノリで秋水と命名された戦闘機が、神のお告げで試験に失敗したというのは、当時の日本を象徴していたようにすら思えてしまう。
(隔週日曜日に掲載)
■試作戦闘機「三菱・秋水」
形式:戦闘機(性能は予定、推定値)
動力:特呂二号ロケット推力1,500kg
1基寸法:全幅9.5m・全長5.95m・全高2.7m・翼面積17.73(平方メートル)
重量:全備重量3870kg
乗員:1名
性能:最高速度888km/h・航続時間数分
武装:30mm機関砲2