勇利は、旧ソ連時代のペレストロイカ政策で来日、協栄ジムに所属して力をつけた。90年にバンタム級でプロデビューしたが、相手を3RTKOで下しボクシングファンに衝撃を与えた。
翌91年3月、フライ級日本王座に初挑戦。相手を第1Rで3回のダウンを奪い王座を獲得した。
そして92年、先に上げた試合で世界王者ムアンチャイ・キティカセムを8RKOで下して世界チャンピオンになった。その後、リングネームを「勇利アルバチャコフ」に改め、9回の防衛を成し遂げた。
この9回目の防衛戦は、相手が5年前に対決するはずであったピューマ渡久地。9RTKOで勝利したが、この時勇利は右拳を骨折、長期休養を余儀なくされた。
1年以上のブランクを経て行われた10度目の防衛戦。相手は休養中に暫定王者になっていたチャッチャイだった。チャッチャイとは2年前に対戦、勇利が下していたので、その再戦となった。だがブランクの影響は大きく、勇利は12R判定負けを喫した。
結局、この試合が引退試合となる。その後、トレーナーなどを経験、現在はロシアに帰国。サンクトペテルブルグでジムと飲食店を経営している。また、協栄ジムロシアの代表として日本に格闘技選手を派遣するプロモーターの仕事をこなし、たびたび来日している。ちなみに、勇利は96年に日本人女性と結婚した。