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「時代」を彩った男と女・あの人は今 マラソンランナー・中山竹道さん

 「瀬古選手には這ってでも出て来い、と言いたいです」こんなショッキングな発言を記者会見の場でしたという“伝説”がある中山竹道を覚えているだろうか。80年代後半、瀬古利彦、新宅雅也、宗兄弟らと共に日本のマラソン界を牽引してきた人物だ。

 その中山が一躍、マスコミの“寵児”となったのが、冒頭の発言。瀬古とは勿論、瀬古利彦を指してのモノだが、当時の瀬古は誰もが認めるスターであった。
 「87年のソウル五輪選考を兼ねた『福岡国際マラソン』に瀬古が足の骨折で欠場することになった。それに対して中山が記者会見中に発したコメントですが、彼にしては瀬古と一騎打ちして結果を出したかったのです」当時を知る関係者。
 だが、このコメント、実は一部全国紙が「僕だったら這ってでも出て来ますがね」という中山発言をわい曲して報じたものだった。しかし、中山は一切、報道陣に意見を言わず、関係者の非難を受け入れたのだ。
 中山は高校を卒業後、実業団には行かず、国鉄で嘱託社員をしながら、一人で練習してきた苦労人。そのため、独自の世界を確立、相手が誰であろうが、気に入らない事はすべて、言葉にしてきた。瀬古へのねつ造も“それこそ本心”であった公算が高いのだ。
 「中山はソウル五輪で4位入賞も『優勝しなければビリも一緒』と共同記者会見でしゃべり国民を敵に回しただけでなく、次大会のバルセロナ五輪ではマスコミのメダル至上主義に真っ向反論。(マスコミがメダル、メダルとあおるので)『五輪のマラソンは走ってもつまらなかった。大体、五輪なんか大した大会じゃない』とまで公で言い切ったのです。前代未聞です」(前出・関係者)
 ライバルと目されていた瀬古や谷口浩美は爽やかなスポーツ刈りであったのに対し、やや長めのパンチパーマを決め込んでいた中山。バルセロナ五輪4位入賞も満足せず引退していった姿は今も“伝説”となっている。

◎アクの強い性格が…
 中山は長野・池田工業高校卒業時に実は養命酒陸上部からスカウトされていた。ところが、高校の教員が面接の日に筆記試験だと指示を出し、何と中山がバスケットシューズを履いて試験会場へ行ってしまい不合格に。結果として、国鉄・信濃大町駅の嘱託社員になったのだ。
 その後、富士通長野工場に移るも実業団選手扱いにはならず、自己連でマラソンに挑戦。一躍、注目選手となったことから、ダイエーにスカウトされ実業団生活を開始。
 ところが、アクの強い性格が災いし、指導者の高橋進、佐藤進と相次いで対立。バルセロナ五輪での問題発言に当時の中内会長が激怒し、ダイエーと決別する格好で、92年引退した。
 マラソン成績は16戦5勝、2位4回、3位1回。
 引退後は大阪経済大の監督を経て同大付属高の監督に。04年から今年3月まで愛知製鋼の監督を務めていたが、これも会社と指導法で揉め事実上の解任となった。ちなみに長男・卓也は早稲田大競走部の2年生。

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