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競輪人国記 兵庫(3)

 S獲り全盛時代の80年代、佐野裕志(35期)は「日本一速いのでは…」といわれたくらいS獲りの名手だった。同期の中野浩一(福岡)とは仲が良く、佐野がSを獲って中野が好位をしめるレースの組み立てが多かった。
 ダービートライアルが日本選手権を巡って2回戦制で出場権争いが行なわれた時期があった。たしか平塚のダービートライアルで中野が先行して佐野がG前で差しきったレースも記憶にある。S獲りのダッシュを活かして昭和57年の日本選手権、同年の高松宮杯の決勝にも勝ち上がっている。
 兵庫では唯一の特別競輪覇者である42期デビューの中里光典は、昭和57年の大垣・日本選手権で中野浩一、山口健治(東京)菅田順和(宮城)をまくって快勝。6番車の黄色(当時の色)のユニホームでゴールを駆け抜けた。このレースには佐野も優参していたが6着に終わっている。

 その後の中里は特別競輪での落車失格などが多く、優出の実績はないが、息の長い選手生活を送っている。51歳となった現在も現役のA級2班で走っており競走得点も83点とまだまだやれそう。
 中里以上に期待されたのは亀川修一(41期)だった。スプリンターで、昭和55年の競輪祭新人王を獲り、特別制覇も期待され、世界選の代表にも選考された。中野との連係レースが多かったが、当時の西日本の新人先行は中野に2段駆けされても「中野さんに使ってもらった」と喜んでいたそうだ。亀川もその一人ではなかったろうか。
 斉藤哲也(45期)は坂東利則の弟子で特別競輪の常連まで上がった。新人の頃に師匠の坂東が「脚をつけるのも大事やが、ハンドルの引きも大事や。もっと握力をつけんと回転のバランスがとれん…」と言われると、ハンドグリップを片時も離さず握力強化に努め、瞬時に70キロの握力をつけたというから凄いものだ。
 先行からまくり、追い込みと変わったが、再生不良性貧血症という不治の病にかかり、選手生命を絶たれてしまった。

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