金メダル候補だった福見は、北京五輪準決勝で谷氏を破って金メダルに輝いたアリナ・ドゥミトル(ルーマニア)と準決勝で対戦して敗退。3位決定戦では、エバ・チェルノビチュキー(ハンガリー)に敗れて5位に終わった。
アトランタ以来、谷氏が続けてきた同階級での連続メダルが途絶えてしまったことについて、谷氏は一部報道で、「心技体の“心”の部分が、うまくコントロールできていなかったように感じた。1回戦で格下の相手と戦っても、的を絞れないというか、淡々と試合をしてしまっている面があった。心が整わないと技も体も反応できない」などと語った。
この発言が物議をかもしているというのだ。というのも、谷氏と福見は同階級であったため、因縁浅からぬ間柄。02年4月の「全日本選抜柔道体重別選手権大会」48キロ級の1回戦で、谷氏は当時、土浦日大高校2年だった福見に敗退。アトランタ五輪決勝で敗れて以降、続いていた連勝記録は65でストップ。また、12年間、対日本人無敗だったが、この連勝記録も98で止められてしまった遺恨がある。
そして、北京五輪に向けた07年4月の「全日本選抜柔道体重別選手権大会」48キロ級の決勝で、谷氏は再び福見に敗れており、谷氏にとって、福見は“天敵”そのもの。ところが、全日本柔道連盟は同年の「世界柔道選手権大会」代表に、福見ではなく、過去の実績を重視して谷氏を選んだ。結局、福見は五輪に出るための大きな実績作りとなる同大会への出場がかなわず、五輪出場が絶望的となり、この選考は物議をかもした。
08年2月に右足を骨折した福見は、北京五輪最終選考会を兼ねた同年4月の「全日本選抜体重別選手権大会」に、故障を抱えたまま強行出場したものの、1回戦で敗退し、五輪への道が完全に途絶えた。結局、同大会で谷氏は決勝で山岸絵美に敗退したものの、これまでの実績から谷氏が五輪代表に選ばれた。
結果的に北京五輪で、谷氏は銅メダルに終わり、3大会連続金メダルを逃したが、これに関して、「全柔連が07年の『世界選手権』の代表に福見を選び、五輪に福見を出していたら、もっといい試合ができた」などとやゆされたこともあった。
誰がどう見ても、谷氏の北京五輪出場は実力で勝ち取ったものではなく、過去の実績重視で、その影で福見が犠牲になったのは明らかだった。谷氏は国内外問わず、2敗を喫した対戦相手は福見のみ。苦手としていた福見に対しての苦言も、「谷氏が福見に言う資格はない」と批判の声が上がっても致し方ないところだろう。
(落合一郎)